『千と千尋の神隠し』 さかしまの世界へようこそ

以下の内容を読まれるのでしたら、こちら(映画の抱えるお約束事)とこちら(映画の抱えるお約束事2 日本ガラパゴス映画)をどうぞ。当ブログの理論についてまとめてあります。







風の谷のナウシカ』でもナウシカの「北枕」のシーンがあります。

序盤に一人で腐海遊びをして、そこでオームの抜け殻を見つけた後のシーンですが、

死の灰の降る世界で物思いにふけるナウシカ


物騒な物音に跳ね起きて、体をよじるように<−に方向転換。


このシーン以外にも、ナウシカ腐海の底で何度も「北枕」になりますが、
どうやら宮崎作品では、腐海なりテーマパークなり、異界というべきものを設定して、その中では世の中の常識が通用しない。そしてその異界の中の体験が主人公を導くという仕組みがあるようです。

ナウシカは普通は <−方向に元気に起きますが、腐海という常識の通用しない世界では、別に何回死んでもそのつど生まれ変わるのですから「北枕」でもかまわないわけです。そして何度も死ぬ事で、それまでの自我の殻から脱皮して成長していける、そういうことなのだと思いますが、

千と千尋の神隠し』では、その異界の存在がナウシカよりも徹底的に描かれています。

映画を見ていていつも思うことなんですが、外人は日本映画を見て進行方向が逆である事にためらったりしないのだろうか?日本人とはネガティブとポジティブを取り違えて真逆の感想を持ったりしないのだろうか?ということですが、画面の進行方向の解釈以外にも常識や文化が違うので、そちらのギャップからの誤解の方が大きいかもしれません。それで日本映画の方向が世界で孤立している事の問題が表面化しないのかもしれませんが、

この『千と千尋の神隠し』ほとんどのシーン、ネガティブとポジティブを逆に解釈したとしてもそれなりに意味が成立してしまいます。


この映画では、労働シーンは<−方向が基本です。働くもの喰うべからずの世界ですし、労働や煩わしい人間関係の向こうに人間の成長があるというのがおそらく物語の目的として設定されていますから、労働シーンは<−向きに流されていきますが、
中には子供にはきつい重労働も含まれています。

日本人、特にジブリスタジオの従業員のような労働に対してどMな感性を持っているならすんなり受け入れることが出来るかもしれませんが、階級が固定化されて効率よくサボる事が生きる知恵となっている国々の人が見ると、この風呂釜擦りのシーンなど単なる逆境にしか見えないかもしれません。

外国映画の進行方向は −>ですから、その方向と勘違いしてみると、労働は児童虐待にしか見えませんでしょうし、そもそも「北枕」に注目して、千と千尋の世界を解釈してみようと言う視点は絶対生まれないでしょう。


腐れ神らしき怪物がやってくる。
普通考えると、こういう怪物の進行方向は −>方向が当然なのでしょうが、宮崎駿は『ナウシカ』に於いてオームと虫の進行方向を<−とポジティブに設定した前歴がありますので、その子とを考えれば、「福の神とは一見福の神には見えないものだ。本当の価値というのは往々にして目に映る姿とは逆である」という哲学が仄見える怪物の進行方向です。

ただ、そういう事を考えないとしたら、これは普通に悪臭ぷんぷんの怪物の進行ですから ネガティブに行われていると思われるでしょう。
そして 外国映画のネガティブ方向の<−と思い違いしている人もいるのではないでしょうか。


ここで千尋が <−とポジティブに立ち向かうところが、この映画の気持ちのいいところなのですが、
外人が見たら、悪臭怪物と間近に対面しているのは、逆境としか感じられないかもしれません。


初めてユバーバに褒められるシーン。普通褒められるんだから、千尋はホームの位置取りするべきだろうと思うんですが、なぜかアウェイです。
もしかするとユバーバも実はいいところがあると言う印象を与えたかったシーンなのかもしれませんが、外国人なら、普通に千尋をホームでポジティブと思っておしまいでしょう。


もののけ姫」から大量の外国人スタッフを抱え込んでの製作になり、そのせいで外国人が見たらどうなるかということを考慮しての演出を始めたのかもしれません。もしかするとネガとポジを逆にしても成り立つような話を作ると言う離れ業に挑戦しているのかもしれません。

そして、ほとんどの部分については、ネガポジ反転してみてもちゃんと話が成り立ってしまうのが千と千尋です。

そしてそれ故、ナウシカにあったようなメッセージ性は成立していないように思われます。ここにあるのは、あくまでもお説教で、昔話が含んでいるような子供をしつける為のお説教があるだけです。

私でさえ、電車の進行方向とハク竜の飛ぶシーンがなかったら、この映画、外国向けに進行方向入れ替えてある特殊な作品かもしれないとかんぐるところでした。


ボーイフレンドののろいを解くためにゼニーバのもとに向かう。
電車は<−へと向かう。


何遍も繰り返してみていると、ゼニーバはいい人だということが分ってしまっているから、このシーンでの千尋にあまり共感できないのですが、
それでもこの電車のシーン、初めて一人で電車に乗った時の不安な気持ちを思い出させます。だんだん外が暗くなって、一人きりでそしてもしかして自分の行く先が間違っているんじゃないか、もう家に帰れないんじゃないかという不安。

ただ、それでも千尋はしっかりと進行方向を向いています。ただしかし、ガラスに映る反対側の顔は、おでこが丸っこくて幼く、目に光がなく、眉毛と唇の線にも力がありません。
彼女の心細い心の反面を描写しているようです。




結局このさかしまの世界は何だったんだろう?ポジティブに捉えるべきなのかそれともネガティブに捉えるべきなのか?
全くそういうことに対して答えが用意されていません。
もう一回チャンスがあったら、再訪してみるべき場所なのか?
千尋の引っ越した家のすぐ近所なんだからいくらでも機会はあるでしょう。もっとも近所にこんなものがあるとしたら、怖くてやってられないでしょうけれども。

そして、このテーマパークから離れる時、その離脱はポジティブなものであるとして<−方向になされるのか、それとも本の現実世界への帰還として−>でなされるべきなのか?


この神隠しを夢オチと解釈するな、ということは千尋の髪留めがきらりと光る事で駄目押しされていますが、その時、彼女の見ている方向は、日常現実の方ではなく、このテーマパークの方なのですね。彼女にとっての未来とは、このテーマパークでの体験に接木されるべきものであると言わんばかりのアップです。

ただ、このカットも外人が見たときに<−ネガティブ方向と取り違え、自分がさっきまでいた場所を振り返っただけのカットと解釈する余地は十分にありえます。


意図したのかしなかったのか、おそらくしたわけではないのでしょうが、
千と千尋』の為に用意されたさかしまの世界は、日本と外国で映画の進行方向がネガポジ反転しているという事にばっちり対応してしまっているのですね。