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『風の谷のナウシカ』 主人公の人物造型を読み解く

画面に流れがあるという事は、その流れに沿った動きはスムーズに進行すると言う事であり、
家に帰るときは、普通の人の場合では一番安らげる場所ですから、<−−進行で帰宅する事になります。

また、家とか故郷とか、そういう空間・地理を離れて、心許せる人と会う場合も、<−−進行になります。

ナウシカがユパ様と再会するシーン。大きく手を広げて、うれしそうに<−−に駆け上がる。

もったいぶらずに自分の愛情を素直に表現できる点が好ましい。


逆に、逆境に至るときは、流れに逆らっての進行となる。上司の部屋、外国、危険地帯等の地理・空間に限らず、苦手な人との面会も、この逆ポジションでなされる事が多い。


実はナウシカは男の子と一緒に画面に映る時は、いつもアウェーのポジション。つまり彼女にとって恋愛はアウェーであると言う事。それゆえだろうか、男の子のあしらい方がぎこちない。

ラストのシーンでもの、やはり男の子といるときはアウェーポジション。それでも男の子に持ち上げられてくるくる回されているうちにナウシカも男女関係とは何かについて徐々に気がついていく(という風に私には見えた)

魅力的な女性キャラクターを登場させる時には、彼女には、恋人を登場させないという手法が日本のアニメでは常套化している。周辺のB級キャラクターには恋人をあてがっても理想的なメインの女性キャラクターはシングルのままにしておく。その理由は、彼女が観客の男の子の恋人だから。
メーテルしかりセイラさんしかり綾波しかり。

もしくは、こう考えてもいいのかもしれない。ナウシカって女の子から見たとき、感情移入の対象になりうるのか?こんなに偉い女の人に感情移入できる女ってどれだけいるんだろう?
実は、ナウシカの愛好者はみんな男なのではないか、それで女の子達はトトロとかポニョのほうが好きなんじゃないか?

どちらかというと観客はナウシカに抱きつこうとしたり、疲れたナウシカを見守るような男の子の目線に同調しているのかもしれない。



このシーンみても、ナウシカは偉い女の子だと思う。
自分が人質に選んだ老人をなだめる為に、ガンシップのエンジンを止めて、マスクを外し直接語りかける。今で言うところの体内被曝のリスクを冒しての行為なのだが、あくまで笑顔でサムアップ。
ただし、体の向きは−−>とネガティブ方向。


その後急いでマスクをつけて、正常な有り方に復帰。それゆえの<−−への方向転換。おそらく体内被曝済み。

普通の人間だったら、体の向きが逆になる、もしくは表情が逆になるはず。
リスクを冒すときには、周囲を元気付ける為に明るく振舞い、安全な状態では厳しく現実を吟味する。理想的なリーダーとはこういうもの。
ナウシカ、この女の子、偉すぎる。

ーー>での、笑顔のサムアップのシーンは、『未来少年コナン』の中にもある。
ギガントの翼の上での大立ち回りの時、コナンがジムシーと船長にそのサインを送る。


よほど宮崎駿のお気に入りシーンなのだと思う。
そして、このとき−−>の方向を体が向いていなければ、この笑顔もサムアップも意味ないんです。これは単なるバカがリスクを勘定できないのではなくて、全て分った上での無茶ぶりなんですから。


そして、おそらくナウシカ見ている人たちがみんな好きなシーン。

どうして、この若い男の方はナウシカを撃てないのか?
普通に考えると、見るからに優しそうな顔とそうでない顔に描き分けられているから、
彼はその優しさゆえに撃てなかったのでしょう。
もしくは、その若さゆえに、自分の恋人でもおかしくないような年齢の女子を撃つ事が出来なかった、とも考えられますが、
典型的な優しさの描き方を別とした理屈っぽい解釈は、そんな見ている間の短い時間に説得力を持って心に届きますでしょうか?

それっぽい理屈はいくらでも後から考える事は出来るでしょうが、それはあくまでも後からつけた理由でしょう。


ナウシカの進行方向は<−−ですから、彼女を迎撃するにはガンを−−>の方向に向けるのが筋というものです。
しかし、彼のためらう心を表すように、ガンは<−−の方向を向き、ナウシカの移動線に同調しています。

心とは目に見えないものですし、たとえ言葉にしたところで何か嘘のように感じられるものですが、
映像化して心の流れを銅線として表現すると、妙な説得力が見るものに感じられます。

画面の線の向きと流れで、ナウシカと若い男の心がシンクロしていくのが分ります。


気を取り直して、ナウシカを撃とうとしますが、その向きは中立であり、


ナウシカの向かってくる向きも完全に中立です。

もう二人の心は同調してしまっているんですから、これでは戦闘になりません。


迫ってくるナウシカの表情はなぜか無表情です。自分の行うことの価値を理解し、それを撮ってつけたような元気で奮い立たせようとしていないのならば、どれだけ危険を冒しても人間は淡々としているように私には思えます。

何でこのシーンが感動的なのかというと、観客はこの若い射撃手に共感してみているからではないでしょうか。彼女を撃てない撃てるわけがない、そう感じてみているのですが、それに対するナウシカの方のリアクションは完全に予測と期待を越えたものでしょう。体を十字にして、なんの機械も使わず身一つで空から降りてくる。
若い射撃主の感じる意外性に、観客の方もまんまと乗っけられている、そしてそれゆえの衝撃を感じるのではないでしょうか?

この若い射撃主、あんまり出番ないですけれども、いないとこのシーンの印象ってありきたりなものだったのかもしれません。

ナウシカは丸腰で飛び込んできますけれども、
ナウシカにシンクロしている射撃手に共感している観客の心というのは、ナウシカに対して無防備であるのではないでしょうか、そしてその無防備の中にナウシカは飛び込んでくるのですから、やたらとこのシーンは印象深いのです。

十字に広げられた彼女の体が、キリスト教の救世主を思わせるというだけが感動的な理由ではないでしょう。


撃つ気のない若者を年配が押しのけます。
そして年配の射手の敵意に対応するように、ナウシカの体が<−−にずれてゆき、


射撃主は−−>の方向に発砲します。
戦争シーンと同じく−−><−−の対立が画面に現出しました。

このように画面を見ていくと、人間の心の動きというのは、実は単純な二進法的なもので十分説明できるのではないか?人間の心の複雑さというのは、その背景となる現実や状況との兼ね合いの中にのみあるのであって、心そのものは本当に二進法的なものなのではないか?そのくらい単純でなければ無意識という獣じみたものに心が統御できるわけはないだろう?と思えてきます。