『風の谷のナウシカ』 映画の中の北枕

映画の画面には、進行方向があり、日本映画では、の方向に進行する。

矢印の向こうに目的地と目的があり、
通常主人公は、それを追及するので、矢印の流れに乗って行動する。


そして、敵役は、その主人公の進行を阻むのが使命ですから、逆方向から現れます。

そして
主人公の方が流れに乗っていると言うアドヴァンテージがありますから、大抵は主人公が勝ちます。

映画とはこのように画面構成が行われているものであり、
この流れに乗ることの出来る画面向かって右半分をホーム そしてその反対側をアウェーと私は命名しております。

映画の画面では、主人公は右に映ったり左に映ったりを頻繁に繰り返しますが、その位置変換は無意味になされているのではなく、登場人物の状況、心理状態に一々対応させてなされるのが普通です。
それ故、映像作品は奇妙な説得力と強い共感力を持っているのです。

主人公が逆境に置かれる場合、画面上でも

アウェーのポジションに置かれます。この位置にいる限り主人公は目的に向かって進むことが出来ませんし、流れを敵にしているのでなかなか勝利する事も出来ません。

映画の奇妙なところは、主人公が逆境に置かれるまでの論理的展開をはしょってただ主人公をアウェーに位置させるだけで、その状況展開の流れに説得力が生じるのです。

いわゆる論理的根拠以上に、ポジショニングチェンジする為の自然な理屈付けの方が重要だったりします。
何で主人公の立ち位置が右から左に移動したのかに合理的な裏づけがあるならば、そこでの主人公の状況や心理の変化にも合理的な根拠があるように錯覚されるのですね。
映像の説得力というのは奇妙なものです。

それゆえ脚本の段階で成立している説得力と画面が完成してからの説得力は、奇妙にずれています。


こういう点では映像作品とは楽なものですが、しかし、所詮平面画面で右と左しか方向がないのですから、往々に画面は矛盾を孕む事になります。


風の谷のナウシカ

トルメキアが風の谷に攻めてきます。
ドルメキア軍がイイものの訳なくて、敵役であることは決まっているのですが、
それでも彼らは<−−のポジティブ方向に進行します。
風の谷の人たちは、自分達の村で本来ホームであるにも関わらず、画面上ではアウェーの位置どりです。

こういう例はいくらでもありますし、こういう例を引き合いに出して私のいっていることは所詮デタラメであると主張する事は極めてたやすい事ですが、
その主張は愚かしい間違いです。

本来右と左にしか進行方向がないのですから、いくつかの条件が重なる時、その内の一つを優先しなければならない状況は生まれます。

この『風の谷のナウシカ』で言うならば、圧倒的な軍事力を所持するトルメキア軍の前では、風の谷の住人達は自分の村にいるとはいえ圧倒的な不利な条件での戦いを行うことになるのであり、それ故、画面上ではアウェーのポジションの方がふさわしいということなのでしょう。

このような理屈付けは、如何様にも出来るので、屁理屈を言っているようにしか思えないかもしれませんが、
ただし、画面上の右と左の方向は極めて客観的な事実であるので、この画面の方向を読んで内容を理解すると言う見方は、非常に明確で客観的な根拠に基づいているものです。
そして、この画面上の方向が観客の心理に影響を与えていると言う事をアンケートでもとって証明することが出来たら、
画面から方向読み取った結果の解釈は、作者の意図したものよりも正しいということにさえなります。



なんで、私が、こんなに自信たっぷりに画面の方向の読み方について力説しているのかと言いますと、

いくつかの要件が絡み合い矛盾を孕む画面構図は別としまして、ただ単なる一つの要素しかない画面では、単純極まりない事柄が映画の表現のお約束事と化しているのです。


日本映画では <−−方向に飛び降り自殺する人はいない、というのもその一つです。
ただし、自殺してから死後の世界にたどり着きそこでの体験が映画の核であると言う場合なら、<−−方向に飛び降り自殺する人もいるでしょう。

ただ、普通は映画人は映画撮っている間はヴァイタリティーに満ち溢れていますから自殺を肯定するような映画は撮らないだろうし、死んだら物語は終わるのですから、<−−の方向に死んでも目的地にたどり着けないわけです。


飛び降り自殺というのは、両義的に捉える事がほぼ出来ない行為であるので、−−>方向になされるのがお約束事化してしまいました。


そして、これもお約束事化していることですが、

映画には北枕という概念が日常の現実とは形を変えて存在します。

画面の流れに逆らって、頭を持ち上げ起き上がろうとするのは難しい。現実世界でも額を指一本で押さえられたら、起き上がることが出来ません。
それ故、死者、もしくは死に掛かっている人は、こちら側に頭を向けて寝ています。


それと比べると、このポジションだと、画面の流れが寝ている人の手を引っ張って起こしてくれるようなイメージがあります。
起き上がれる人は、通常このポジションで寝ています。


瑣末なお約束事といえばその通りなのですが、ただし、このように瑣末な箇所でお約束事を忠実に履行し続ける事で、映画全編を通しての左右の進行方向による心理操作が説得力を持ってきます。
方向操作による心理操作は、魔術ではなくて、所詮確率論的な心理操作なのですから、細かいところからの積み重ねがどうしても必要になるのです。<−−方向の動きが10回続けてポジティブだったから、11回目の<−−の動きはポジティブなものに決まっていると無意識に決め付ける、そういう意味での確率論的心理操作です。
そしてそれ故、お約束事化したシーンが生まれ、継承されてきているのです。


『ピンポン』

「スコックで負けましたー。俺もう死ぬ」
「死ぬならよそで死んどくれ」
「いやだ、ここで死ぬ」
窪塚洋介、北枕です。


「オババのパンツみちまっただぁー」

意外な理由で生き返っています。ユーモアって人を生き返らせるもんなんですね。



橋の上から飛び降り。でも死んだわけじゃなくて新しく生まれ変わる。髪を切ってもう一度卓球をはじめる。
当然 北枕じゃない。

時をかける少女

普通の朝の目覚めです。当然<ーー方向に目覚めます。


時間跳躍能力を得るきっかけの事故。主人公北枕です。
この失神が特別なものである故、北枕とも言えるでしょうが、あえて言っちゃうなら、このシーンから先は「覚めない夢」としての物語ということでしょうか。


おくりびと

こういうシーンを取り出して、私の言っている事をデタラメ呼ばわりする事はたやすい事ですが、ただ、私はこういう例外的なシーンにちゃんと理由を見出せますし、そのセオリーに反したシーンほど映画の骨格をよく示しているものです。

死んだ人とちゃんとコミュニケーションをとることが彼らの仕事である。
だから、彼らにとっては死体は生きている人と何も変らない。そういうことなのでしょう。

そして死者を不完全な形でもいいから生き返らせて、遺族と最後の別れをさせるのが、おくりびとの使命。

たった一枚の画像から、映画のテーマが分ってしまいます。


仕事を覚える為に、死んだ人の気持ちに成ってみる。
モックン、生きてますから、当然 北枕じゃありません。



でも、結局なにやったところで死人は死人ですから、悲しみにくれる遺族の前では、北枕です。


風の谷のナウシカ

ラステル姫の臨終のシーン。まだ生きていて、積荷を焼き払うようにとナウシカに伝えます。


息を引き取ると、「北枕」。ちなみに「北枕」にカットが切り替わる為の合理的説明として侍従の視点のカメラに切り替わっています。



ナウシカの父親の病床シーン。もう病気が治らないのが分りきっているので、「北枕」です。ただしポジショニングはホームですから、安らかに死を待つ状態であることを示しています。


ナウシカの寝室シーン。健康な女の子は <−−方向に目覚める事が出来ます。


ラストシーンですが、

当然、ナウシカの頭は「北枕」ではありません。


風の谷のナウシカ』が「北枕」にこだわっているという事を理解したうえで、ナウシカ腐海の底の森に至ったシーンの方向を解析してみると、この作品の主張が分る様な気がします。

映画=主張というわけではなく、映画が観客に何を与えたかによってその作品は評価されるべきではありますが、
主張つまりメッセージも映画が観客に与えるものの一つなのですから、やはりちゃんと見る側は考慮すべきでしょう。

メッセージなんかどうでもいい、みたいな乱暴な事をいう評論家もいますけれども、それは違うだろ、と。
















寝ていないシーンも混じっていますけれども、とにかく枕の向きが頻繁に入れ替わります。

ちょうど男の子と一緒に異空間にいるので、その男女二人の緊張感がその方向転換の理由の一つになっているのでしょうけれども、それにしても異空間にいるからといって、頻繁に合理的説明もなく枕の位置を変えすぎます。

何遍ナウシカは、この腐海の底で「死んだ」んだろう、そして「蘇えった」のだろうと思うのですが、
ナウシカはこの腐海の底で、一つの答えを見つけたように観客には見えるかもしれませんが、その答えは一体なんだったのかが、実は説明されていません。

腐海がいつか世界を再生させる事は理解しましたが、では、風の谷の住人にとってはそれはどういう意味を持つのかという事は分らないままなのです。

風の谷の住人にとっては、そんな悠長なことは言っていられないでしょう。腐海の拡大は今そこにある危機なのですから。

何世代も何世代も死んで、そうして長い年月が過ぎた後、人類は始めてその答えに到達する事が出来る、
ナウシカの枕の位置の変化の数の多さは、そういう意味なのかもしれませんし、
もしくは、人類が滅んだ後に、もう一度生命と自然の歴史が繰り返されて、それが幾セットか過ぎた後、新しく生まれ変わったヒトは自然との間に理想的な共生関係が築けるという、ある意味で破滅信仰のようなものなのかもしれません。

わたし達に出来る事は、そういう必然的な破滅を前向きに見つめる事だけなのではないでしょうか?

私が以上で述べた事がナウシカを見た感想には、ちゃんと根拠があるわけでして、それ故、全く個人的な妄想というわけでもありません。きっと似たような感じ方をされた人もいるだろうし、もしかすると、宮崎駿も同じことを思っているのかもしれません。
「人類なんか滅んだ方が地球の為にはいい」とか言っちゃうような人物ですから。

ナウシカ』の画面ではオームや虫たちは基本的<−−とポジティブ方向に移動します。


私は便宜上ポジティブという単語を使っていますからもしかすると誤解される方もいらっしゃるかもしれませんが、ポジティブというのは、物語の目的達成のためにポジティブな役割を果たすと言う意味でのポジティブです。

決してメンタルクリニックの人たちが患者を励ます時に使うポジティブという意味ではありません。

だから、物語の目的が破滅の希求であるとするならば、ポジティブ方向に進むものは破壊行為をおこないます。
物語の目的が死の悲惨さを描くことであるならば、ポジティブ方向に流れるのは、全て血塗られたものに満たされます。

ナウシカは、この映画の中の目的&目的地をはっきりと認識できているのか?というと、うすうす感づいているだけで実はよく分かっていない。そういう立場です。
物語の主人公が常に自分の求めるものを分っているのか?と言えば、創作理論的には分っている振りをさせたほうが都合がよいのでしょうが、わかってない場合だってあるわけですよ。

どうやって世界を救うのか?という事を物語にした場合、『アルマゲドン』的な世界の救い方ってあほらしいと思うでしょ?

ナウシカの飛翔シーン。

飛び上がる時には−−>ネガティブ方向で浮き上がり、


空中に浮かんでから、<−−へポジティブ転換


それからやっと力強く<−−方向へ進む。

この飛翔のし方から考えても、実はナウシカはこの物語の目的地をよく分かっていないのだろう、ただ彼女の行動が必然的に目的地に導かれていくだけなのだろうという事を私は感じます。

そして


虫たちと対峙するときには、受動的なポジショニングが常です。彼女は人を導いてどうこうしようとはしますけれども、虫たちには極めて受動的であり、彼女は物語の目的を知っているわけではなく、物語の過程で虫たちに導かれるように目的を発見する、というかなり特異な主人公像であることが分ります。

物語が破滅を希求していると仮定するならば、ナウシカはそんな物語の目的を知らないままの方がいいのかもしれません。

この物語の目的を主人公が知らないという構造は、100年前の教養小説のようでもありますが、宮崎駿はもともと長編のテレビアニメに携わっていただけに、長い物語の中で主人公が成長していく過程を描くことが彼にとっては当たり前なのでしょう。

何が欲しいのか?何になりたいのか?それを分っている主人公達、アメリカンドリームへの挑戦者というようなキャラクターとはナウシカは全く違います。