『ハウルの動く城』  自分の居場所 女の幸せ

以下の内容を読まれるのでしたら、こちら(映画の抱えるお約束事)とこちら(映画の抱えるお約束事2 日本ガラパゴス映画)をどうぞ。当ブログの理論についてまとめてあります。








今になって思えば、自分の居場所を獲得する為にぐずぐず悩み続ける『エヴァンゲリオン』って、それは本来女的な悩みだと思う。
男の場合は、居場所を探すよりも、目的地に向かって進む方が多いのではないか。
女が定住志向で、男が移動志向ってか。



画面進行方向の上流がホーム、下流がアウェイとなります。
目的が、進行方向の矢印の向こうに設定されているのが映画・ドラマなのですから、その目的の方角を向くことの出来る位置はホームであり、アドヴァンテージに恵まれます。
それに対して、進行方向矢印の向こう側の位置は、それ以上先に進むと崖っぷちであり、基本、目的を背にする立場となり、ハンディーを背負う位置になります。




そして映画ドラマの表現で興味深いのは、他人の家や部屋を訪れる時に、そこは登場人物にとってホーム(求めたきた場所もしくは寛げる場所)であるのかアウェイ(居心地の悪い場所、本来いるべきでない場所)であるのかが、向きによって分るのですね。


「動く城」に飛び乗るシーン。基本の進行方向<−にそった移動です


中に入った後、ほんの僅かな間だけ、アウェイの立場で


すぐに中立地帯にポジショニングすると


あっさりと暖炉の傍に、どっかり腰を下ろして、ホームのポジションでくつろぎます。


2枚目の画像の、ほんの短い間のアウェイ状態ですが、「動く城」の内部の誰かの視線を模した構図とは見えませんので、これは「動く城」のだれかの敵意ある視線というよりも、主人公の警戒心を表現したカットであると思います。
そして、老い先短い図々しさから、無意味な警戒心を捨てて、早々とくつろいでしまう老人心理が見て取れます。

よくよく考えてみると、この物語、近代小説的というよりも、前近代の民話なみの無茶なノリがいたるところにあります。

捨てるが惜しい立場や自我がなく、どこに行っても流浪の民のように居つけてしまう。

老人を主役にしている事からこの物語の図々しさが出てきているのかもしれませんが、もしかすると繊細なインテリの感性で書かれた近代小説的なものを離れた、民話のノリで通しているから、この図々しさが産まれてきているのかもしれません。
大体のところ民話って、老人、それも婆さんの方が子供にする話ですから、基本的にハッピーエンドの探求に図々しいのでしょう。死ぬ間際になって悲観的な話好む老人もそんなにいないと思うんですよね。





男と女が、共に行動する。ただしその目指す目的地が同一とは限らない、そういう物語はかなりあります。
代表的なものでいいますと「勝手にしやがれ
男の方は外国逃亡を目指しているのに、女の方はフランス国内でのキャリアアップを望んでいる。
結果として女は男を警察に通報するのですが、

目指すところが全くに別という訳ではなく、道のりはほぼ同じであるのだけれども目的もしくは目的地が男の場合はより遠く難しいものであるのに対し、女のものはより近くより簡単であるという物語も存在します。

キャリアの追求が男にとってより容易である社会では、その代わりに男に延々と目的追求の努力を強います。だからでしょうか、自然と男の目的地の方が遠い物語が増えるのでしょうけれども、
女の場合は幸せな家庭、男の場合は社会的成功、そうなると、女は男より遥かに早く目的を達してしまう事になりやすいのです。



<−の方向に目的及び目的地があるのだから、そこを目指している時、移動は<−でなされるのだが、その移動が終わった事を表現するには、移動終了マーカーとして−>方向のカットが挿入される事が一般的。


2時間の物語の中の、1時間過ぎの時点で、女の子は早々と目的地に到達してしまう。


カメラは−>方向に流れる


いつになく若返った主人公。きれいな水辺の景色。好きな男の心の中の大切な場所。そして、<−方向への移動を止めて、−>方向へ振り返る。

男と女が人生に於いて求めるものにずれが生ずるのが一般的傾向なのですから、物語の中でも、男と女の目的、目的地がずれているというのは当たり前なのかもしれません。
そして、大抵女の方が自分の求めるものを先に手に入れます。
そしてそれが物語り構成の心地よい波を形成したりするものです。


カナリア

全編に於いて、谷村美月のポジショニングは<−のポジティブ側なのですが、


ラスト手前の食堂でオムライスを食べるシーンでは、−> のネガティブです。
これは、彼女にとっての目的地に既に到着したことを意味し、彼女の移動が終了したということでもあります。
こんな年齢の女の子でも、幸せな家庭とか明るい食卓みたいな事が人生の目的としていると設定されても、見る側は納得させられてしまいます。それが一般人のイメージにある「女」というものなのでしょうか。
それに対して石田法司の方は、これから祖父のところに行って妹を取り返し、それから行方不明の母親を探しださねばならず、これはただのちょっとした小休止といったところです。