『エヴァンゲリオン you are (not) alone 』

自分の居場所探しが、物語のテーマだったのかもしれない『エヴァンゲリオン』ですが、
居場所探しとは自分探しとほぼ同義であって、
人間の社会を野球チームにたとえると、ピッチャーから外野までの9人の中のどれかの役割を果たさないとグラウンドの中に居場所はないわけです。
だからどれかのポジションをやると心に決め、そのための技量を磨かない事には、居場所なんかない。
だから自分探しというのは、適性のあるポジションの選択とその後の技量向上の為の特訓行為と言う事が出来ると思います。
エヴァの操縦士として社会に居場所を見つけ、そのプロセスのなかでネルフ関係者と人間関係を育んでいく、ざっと言ってそんな話がエヴァンゲリオンなんですけれど、

その中で、ミサトさんのアパートに「家族」として迎え入れられるシーン。
テレビシリーズでは、第2話ですか、意外に早い段階でシンジ君は自分の居場所を得る事になります。

さっきテレビシリーズと数年前に描きなおされた映画を見比べてみたんですが、このミサトさんのアパートに「家族」として迎え入れられるシーンなど、細かい小道具の相違は別として、カットつなぎと編集が完全に同じじゃないですか。これ、単なる描きなおしに過ぎなくて「リメイク」とはいえないだろう、と。
何なんだ、この商法は?と唖然としました。まあ、ガイナックスは大阪商人の会社ですからアコギな商法好きなのかもしれません。
映画版は作画がきれいになっているということですけれども、全体的にはテレビシリーズの「何かを生み出そうとしている」という勢いに溢れた作画のほうが私は好きです。描きなおしは所詮描きなおしであり、前作の柵の中で萎縮しているみたいな感じがして、クリエイティブなものがあまり感じられません。

いや、逆にいうと、このシーンの絵コンテとカットのつなぎは完成度が高すぎて、いじりようがなかったのかもしれません。

60年代以の日本では画面はの方向に進みますが、それ以前の映画ドラマでは 画面は方向に進みます。

以下の内容を読まれるのでしたら、こちらbaphoo.hatenablog.com
と、こちらbaphoo.hatenablog.com
をどうぞ。当ブログの理論についてまとめてあります。



遠景で二人の姿が捉えられる。物語の進行方向通りのポジティブな方向に二人が向かっていることから、これからいいことが起こる予感が得られる。
もしくは、これらの行為は物語の目的に適う肯定的なものという製作サイドの価値判断が示されている。

エヴァンゲリオン』のテーマって、しっかりした人間関係の構築って言っちゃってもいいんでしょうね、そういうことが控えめな遠景で描かれています。



ミサトさんのアパート(つまりミサトさんの縄張り)に入るんだから、当然シンジ君は 委縮して向きです。



ここでまた思わせぶりな遠景のカットが差し込まれます。
シンジ君の立ち位置が、側に入れ替わっています。前のカットとは実写なら本来あるはずの「カメラの位置」が逆になっているのですから、シンジ君の立ち位置が入れ替わっているのは当然なのですけれど、
ここで、このようなカットを差し込む意図を考えると、
「シンジ君はここにいていいんです」というメッセージが画面から伝わってくるのですね。
実際「なに遠慮しているの、ここはあなたの家なのよ」という台詞がつけられ語られ、その言葉と画面が波状攻撃を形成しています。
画面と台詞をシンクロさせることで、強い説得力を引き起こす、優れた映像表現ってこういうのものです。

ミサトさんとシンジ君の身長さが、ミサトさんの包み込むような優しさを表現しているように感じられます。

家という暖かい場所に誰かを向かいいれる事、そしてそういう好意の持つ母性的優しさ、一連のカットのぎにはそういうメッセージがぷんぷんにおってきます。



なんで、たかだか、居候始めるシーンがこんなに細かいカット割りで表現されないといけないのかと、冷静に考えると不思議なんですが、
エヴァンゲリオン』のテーマってこれなんですから、しょうがない。

ドアの溝が境界線になっていて、そこを踏み越えて進むことが、煩わしい人間関係に翻弄される今後を示すと共に、人の温もりに飛び込んでいくことをも示している。

擬似家族っていっても、いい点だけでなくて、両義的なものなんですね。そして、そのつらい部分を引き受けた上での擬似家族的な人間関係のぬくもりは一人ぼっちよりも素晴らしい、そのうざいプロセスを通してしか自分の居場所を見つけることは出来ない、というのが『エヴァンゲリオン』です。
そして、問答無用にシンジ君は方向へと進みます。




敷居をくぐる。家族としてシンジ君は受け入れられましたけれど、それでも所詮ここはミサトさんのアパートですから、二人並ぶと、基本の立ち位置は、シンジ君が 弱い立場の側になります。



そしてミサトさんの奔放さというか無茶振りに唖然とするシンジ君。家族として向かいいれられても、所詮は自分にとっては逆境異郷なので、状況は少しずつしか改善していく事が出来ません。

もし、ミサトさんが本当に理想的な母性の持ち主で、部屋もきちんと掃除されていてアル中でもなかったら、この場面の後物語が続かないのでしょう。
ここで、ミサトさんの母性にくるまれて物語はハッピーエンドでしょう。
そしてその後同居するアスカに人間的問題がなかったら、やはりその時点で物語りは続かなくなってしまいます。

エヴァンゲリオン』のような作品を見ていると、物語とは問題の設定にあるという気がしてきます。