シャーロック・ホームズ とのつき合い方 その2

以前、人間の心は、基本的に外からは見えない。
だから、普通の人が見て分らないようなリアルな心の動きの演技は、何の価値も無い
という事を書きましたが、

じゃあ、なんで映画やドラマの演技では、外から心の動きが分るのかと言うと、

演劇の場合、様式化された大袈裟な演技しているからです。かれこれこういう所作の場合は、こういう感情を表すというお約束事があるということです。

映画の場合、そういう大袈裟で様式的演技はもちろんあります。
ソ連エイゼンシュタインの演出は、基本的にそういうものです。
ただしかし、映画には、人の心を表すには、大きな武器があります。
音響、色彩、光量、画面の向きにより、観客の無意識にじかに働きかけると言う方法です。
そういうあいまいな方法で、なんとなく登場人物の心を表現し、それを見ている観客はなんとなく理解すると言う、
いわば、登場人物の無意識の領域を観客が無意識に共感するという高等テクニックが使われているのですが、
こういうものは、タネさえ分ってしまえば、ああ、なんだ、という類のものでしかないのかもしれません。

映画のレビュー読んでいて、みんな病んでいるな、と自分が思わされることは、やたらとネタバレ禁止にこだわる人が多いということ。
ネタバレ禁止にこだわったら、映画について語ることなんか何一つなくなってしまいます。
そういうやり方で、半端なコミュニケーション志向してどうすんだろ、と思いますけれど、

ある意味、わたしが書いているような内容を知ってしまうと、もう二度と普通の人間として映画を見ることが出来なくなるのかもしれません。個々の作品においてのネタバレ禁止とかいうものの100倍くらいヤバいこと書いていると自分は思っているのですが、もしかすると自分の頭がおかしいだけなのかもしれません。

ちなみに、自分が書いているヤバい事の内容というのは、こういうことでして、ポジティブポジションとかネガティブポジションとか −−><−−等は、自分が独自に考えた用語ですから、まずはこれ読んで欲しいな、と願う次第です……「映画の進行方向


ただ、自分の頭がおかしいだけにしては、自分の書いていることって一々理に適っているのですよね。

前回に引き続いてグラナダテレビ製作の『シャーロックホームズの冒険』を取り上げますが、

シャーロックホームズに於いて、一番の謎とは、シャーロックホームズの存在とその天才振りであり、その一番の謎がある限り、推理トリックのアラは大抵読者は許してしまうという事を前回書きました。

天才の頭がどのように働くかなんて、一般人には分りようも無いのですが、
映画というのは、人の内面をその人の背景の色や音や光や向きで表現するという性質を持っています。
普通、現実の世界では、人の心は肉体の中にしまいこまれていると考えられていますけれども、
映画の世界では、人の心はその人の肉体の外側に表現されている、いわばインサイドアウトの世界です。

シャーロックホームズの頭の動きは、彼の芝居がかった動きの動線で示されることになります。
シャーロックホームズが芝居がかったことを好む、とは原作の中でも書かれていますが、俳優ジェレミーブレットの演技もなかなかに優雅に芝居がかっています。

以下は『ノーウッドの建築家』より、




前回も書きましたが、推理小説は謎を解くこと骨格なのですから、画面の進行方向−−>の向こう側に謎があり、探偵はその方向に突き進みます。
細かい<−−向きのしぐさは、彼の脳みそがそれまで考えた仮説を検証し、反駁しているように観客には見えてしまいます。


ここでホームズがくるりと半回転して、こちら側を向き

不自然な動きながら、後ろ向きにドアを開けて次の部屋に向かいます。

この体の動きの反転が、彼の脳内の思考の反転、つまり謎に悩む状態から謎を解いた安堵した状態への転換のように見えるのは、わたしだけではないでしょう。
また、部屋の暗闇が謎であり、次の部屋の明るさが、謎の解けた状態ということが出来るかもしれません。


「はい、わたし分っちゃったんですけど」
そういうことになります。

謎を解く者は−−>に進むのだけれども、ホームズは謎といちゃったからもう<−−側にポジションチェンジしたのですね。

こういうことは、言われて見れば、誰でもわかるんですが、言われてみないと、死ぬまで分らないものです。