『明日に向かって撃て』は明日の方向には撃っていない


映画の進行方向--><--の意味が分らない人は、まず、こちらをどうぞ。

ここしばらく、戦争映画での「戦士の休息」の場面はお約束事化しているという話について書いていますが、

1969年の『明日に向かって撃て』ですが、アメリカニューシネマの時代であり、既成の価値観からずれた映画が量産された時代で、

本来映画が正しい方向に進行すると −−>に進み、 よくない方向に進むと <−−に進むという、本来非常に単純な映画の法則が、ぐちゃぐちゃになってしまいました。

登場人物は小悪党、彼らの目的は犯罪。
一般的観客が、犯罪の成就を望んでいるならば問題はないのですが、
悪党が目的を達する事は −−>と進むべきか、<−−と進むべきかは、実は難しい問題です。

しかも、時代がおおらかなならず者の時代が終わって、アメリカにこれ以上いられずボリビアに逃げていくと言う話で、
アメリカにいる時の状況は迷走に次ぐ迷走、逃亡に次ぐ逃亡で、どこにもいけない停滞感が、画面進行から見て取れます。

そんなストレスフルな映画進行の中、有名な『雨にぬれても』の自転車のシーンですが、

気持のいいシーンだから −−>方向と思っていたんですが、見直してみたら 逆の<−−進行でした。

普通自転車のシーンって、時速20キロくらい出まして、徒歩と野速度差を表す時には、一定距離直線で動くのが普通です。それゆえ、何かの状況が進展する場面に用いられる事が多く、それは、自転車の速度感とあいまって、非常に気持のいい場面が多いのですが、

この『雨にぬれても』の場面は、見ていて気持がいいのですが、
本来不吉な<−−、方向です。

おそらく、このシーンは「戦士の休息」と考えるべきでしょう。
盗賊を主人公にした物語は、犯罪にまみれた黒い世界なので、このように屈託の無い明るいロマンチシズムと言うのは、暫定的な違和感を伴う状況に過ぎないのでしょう。



そして、ボリビアに逃げていく際に、自転車を蹴り飛ばして捨てて生きます。

その自転車が捨てられる方向が 本来ポジティブの−−>方向なのですね。
そして彼らは 逆の<−−ネガティブ方向に進んでいきます。

よくよく考えてみれば、世の中がまともになってきてアウトローの居場所がなくなったから外国に行こうって話です。
今の状況未来の状況が平和で穏やかになってきたからってんで、昨日と同様にすさんだ社会を求めて外国に出て行くわけです。
これって、明日に向かって進んでいなくて昨日に向かって進んだんじゃないですか?


捨てられた自転車は雨ざらしで、こうなってしまいましたが、
彼らは未来を捨てて雨ざらしのままにしているわけで、未来を捨てた人たちにどんな未来が待っていたのかは、映画のラストが示していると思われます。


ちなみに最後のカット。
画面の進行方向は−−>ですから、映画に於ける時間の流れも基本的には、−−>の方向に流れます。
レッドフォードはいいとして、ポールニューマンって、完全に<−−とネガティブ側で銃構えています。その方向に撃っても未来は開けないぞえ、映画文法的には。

なんで『明日に向かって撃て』とか変な題名つけたんでしょう?とか考えるんですか、
ある意味、昨日の方角から、やってくる明日に向かって、撃っているといえるのかもしれません。そしてそういう不合理な事して、蜂の巣になったわけです。

なるほど。