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レイジングブル

デニーロが30キロ体重の増量をしたことで有名な「レイジングブル」ですが、体重増量以上に、パンチの速いこと速いこと。

ラモッタ本人から、プロデビューできる!とお墨付きをもらったそうで、パンチの速さはロッキーはるかに越えています。


ロッキーと違って、サウスポーという設定もなければ、リングネームの面白さでタナボタのタイトル戦という無茶な設定もありません。
本来強かった人の伝記を基にした映画だから、ボクサーの立ち位置は基本ー>になります。


以下の内容を読まれるのでしたら、こちら(映画の抱えるお約束事)とこちら(映画の抱えるお約束事2 日本ガラパゴス映画)をどうぞ。当ブログの理論についてまとめてあります。





レイジングブルでの試合は、常に<−と逆境で戦うロッキーとは異なり、
試合の性格ごとに、デニーロのポジションは変わります。
無意味に相手を叩きのめすような試合では、観客の共感を拒絶するように<−であり
タイトル戦では、その喜びを観客に分け与えるようにー>のサイド位置します。

ただ、ライバルのシュガーとの対戦に於いては、
勝てる試合は、−>向き、負ける試合は<−向きとわかりやすく対応しています。



最後の試合では、追い詰められるように<−デニーロが傾いていきますが、それでも「ダウンしなかったぞ」と言い張るとおりに、完全に<−サイドによりはせず、中央付近のポジションを維持し続けます。


ロッキーのところでも書いていますが、ボクシング映画の興味深い点は、試合をどう描くか以上に、ボクサーの日常がボクサーを如何にぶちのめしているかの描写が面白いのですが、

レイジングブル』は、妻に逃げられ、不健康にデブり、財産を失い、仕事を失い、監獄に入れられ、兄弟とも別れ、と、転落人生を送る主人公の話なのですから、
デニーロの立ち位置が <−サイドに寄る機会はいくらでもあるのですが、
たとえば、
物語の中盤以降兄弟が並ぶときのポジションは、デニーロが主役でペシが脇役であるにもかかわらず、ペシ −>デニー<−側になることが増えてきます。

二人の立ち位置にそれほど気をつけなくても、脚本上の論理的必然性、つまり妻の不貞を秘密にし、兄弟の名誉のために大喧嘩しながらも、デニーロにボコられるという理不尽な扱いを受けるのがペシですから、観客はデニーロからペシが離れるのは当然だと観客は感じるのですが、
ただ画面の上では、ペシがー>サイドで、観客の共感を得るポジショニングをしていますから、
ある意味、ペシがデニーロを見捨てる前に、観客であるわれわれがデニーロを見捨てている、もしくは演出と編集にそのように誘導されているといえるわけです。


映画では、
すべてを失った男として描かれているラモッタですが、彼の人生はそういうものだったかというと、どうもそうでない。
90歳を超えていますがまだ生きていますし、伝説のボクサーとして殿堂入りしていますし、何冊も本を書いてそのうち一つが『レイジングブル』として映画化されましたから、金銭的に困っているということはないでしょう。
少なくとも引退直後は、大金持ちの生活享受しましたし。

まがいなりにもチャンピオンとなり、何かを成し遂げた男としての満足感は感じているでしょう。単なる自己満足のガイキチ『タクシードライバー』のトラヴィスとはぜんぜん違います。

ほんとのこというと、このラモッタの人生って、完全に勝ち組のそれでしょう。

その辺のことは、この映画見ててもうすうすわかるんですよね。
ほとんどの世の中の男が、ろくすっぽ勝負も挑まず勝利も味も知らないままの人生送るんですから、ラモッタの人生が哀れな負け組みのもののはずがないんですよ。

彼の周囲から次々と人が去っていくさまが描かれると、和を重んずる日本人なんて、あれ見て哀れだなと思うんでしょうが、
あれぐらい我が強くなけりゃ、ボクシングなんてやっていられないでしょう。

そんなわけで、この映画のラスト、
鏡に映る自分の姿、いわば、いつまでも自分がチャンピオンだという虚像ですが、
その虚像が、シャドーボクシングしているんですが

そのラストが説得力を持っていないというか、白々しく感じられるのですね、私には。
スコセッシ、また鏡かよという感想を持ってしまいました。

彼は、負け組みの人生送ったわけじゃないだろ、
それに場末の司会業やっているとはいえ、前の仕事場よりもランクアップしてるだろ。
事実、この人結構この仕事で成功したのですね。


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