空気人形

以下の内容を読まれるのでしたら、こちら(映画の抱えるお約束事)とこちら(映画の抱えるお約束事2 日本ガラパゴス映画)をどうぞ。当ブログの理論についてまとめてあります。






漫画評論家の夏目房之介が「ジョーの身体が次のページ方向を向いており、リングの線も同じように途切れずに向かっていることから明日があることを意味している」と言っています。

ちばてつや含め大抵の関係者が、ジョーはボクサーとして復活するかどうかは分らないけれど、生きているみたいに言っていますし、
そりゃそうだろ、と自分も思います。

映画と比べても、マンガってのは、ページを繰っていく方向が決まっているだけに、物語の進行方向が非常にはっきり決まっています。

手塚治虫がマンガを書き始めたときは、映画の手法を取り入れたのですが、漫画のページをくる方向が<−−であるのに対し、外国映画の進行方向が−−>だったので(当時は日本映画も−−>だったんですが)、無用な混乱が初期の彼のマンガにはありました。

ただ、手塚治虫以前の、コマの大きさが均一で四コママンガを長くして行っただけの漫画のばあい、進行方向ってものすごくわかりやすくて、
多かれ少なかれ、このサザエさんみたいなものです。


「空気人形」のラストなんですが、
ダッチワイフが人間の心をもって、周囲の人と交流するんですが、彼女に出来た恋人が、死んでしまい、自分もカラダの空気を抜いて死のうとするんですが、


ラストのショットがこれなんですけれど、
日本映画の <−−の進行方向を考えると、主人公、前を向いているんですね。

これは、限定された命でありながら前向きに生きたことを表現していると考えられます。
もしくは、監督が登場人物に示した愛情であるともいえますが、


この物語、ダッチワイフが人間になるという話、人魚姫とかピノキオみたいな話ですから、
もしかすると、彼女はゴミ捨て場に倒れているけれど<−−方向を向いているのだから、人間として生まれ変わることが出来るんじゃないか?そんな風に考えられなくも無いのですね。
状況的には、8,9割彼女が死んでいるだろうことは決まっているようなものですが。

画面の向きや色彩という、本来不確かな要素は、人間の潜在意識と共鳴しやすいという事を以前自分は書いていますが、

ストーリー展開の必然性、台詞で明言された事というのは、映画の中では事実的に取り扱われるのですが、
向きとか色彩とか光量とか音楽とか、あいまいで不確かな根拠っていうのは、観客側の無意識の願望とかに直結しやすいのですね。

生きていてほしい、幸せになってほしい、観客の主人公に対する思いに、さりげなくささやかな形で、この映画のラストシーンは応えている、自分はそう感じました。

あと、彼女、子宮の中の胎児みたいな姿勢とっているでしょ。
だからきっと、彼女人間として生まれかわるんですよ。

ただ、この映画はこういうことはっきりと言いません。
希望持つ資格のあるやつだけが希望持てばいいわけであって、物語のストーリー追ってるだけのやつにとってはラストの意味なんてどうでもいいこと、是枝監督はそんな風に思っているんでしょう。

自分も、実はこのダッチワイフは人間として生まれ変わる、見たいな事を声高に言いふらす気もありません。