映画の見方

最近は映画見ることほとんどなくなりました

海炭市叙景 オムニバズは物語のモンタージュ

以下の内容を読まれるのでしたら、こちら(映画の抱えるお約束事)とこちら(映画の抱えるお約束事2 日本ガラパゴス映画)をどうぞ。当ブログの理論についてまとめてあります。





海炭市叙景」では、全編を通して

現状を変えたい、現実から出て行きたいと強く思う人物は<−−向きであり、

このままでもかまわないという風に開き直っている人物は−−>向きに統一されています。


そして、その対立は、そのまま男女間の対立に置き換えられていて、

男は <−−向きであるのに対し
女は−−>向きになるように、全体が束ねられています。

現状を何とかしよう、新しいことを始めよう、どこかに行こう、そういう男達の物語であり、女達は、主にその妨害役に回ります。

物語の男達には共通点があって、それは先に進むことが出来ないという事です。

第一話
竹原ピストルは、子供のときから、筏を作るのが好きで、最後の大晦日にも一人で筏を作っていました。そして、その筏は、幼き日の思い出の8ミリフィルムともども、必ず物語の進行方向<−−へと進むのですが、かれ本人は、どこにもいけませんでした。
ロープウェーイの帰りのお金もなく、帰りの遊歩道で足を滑らせて(おそらくは自殺)死にます。

第二話
市役所の役員は、立ち退きを拒否する老婆を説得して、ショッピングセンターの建設を先に進めたいのですが、老婆が頑として立ち退きを拒否します。

第三話
小林薫は、妻の浮気と、自分の仕事のさえなさ加減に苛立っています。
そして思い立って、妻に仕事を辞めさせようと彼女の店に向かいますが、そこで無茶な運転の為に雪に突っ込んで車は動かなくなってしまいます。


第四話
加瀬亮は、仕事にも家庭にも問題を抱え、感情の統御が出来なくなってしまいます。そんなままにガスボンベの運送をやっているとき、誤ってボンベを足の上に落としてしまい、上手く歩けなくなってしまいます。

第五話
三浦誠己は、東京に出て行ったのにもかかわらず、正月に実家に帰ってきます。彼の父親は、市電の運転手で、日々動いているようには見えますが、そのルートは必ずしも前進しているわけではなく、ただぐるぐると同じような場所を行ったりきたりしているだけなのかもしれません。



本来五つの話には、些細な共通点しかないはずなのだが、それらをモンタージュ的に配列してしまうと、それぞれの話が同質の問題を抱えているように見るものには感じられてくる。一つのエピソードの問題が、別のエピソードでは解決を見出されはするが、別の問題を引き起こされる、とでもいうように。
また、モンタージュ的に並べられる事で、これらの登場人物は、姿を変えて別の話に登場してくるだけで、みんな同じ人達なのではないだろうか?それが証拠に、
男は<−−向きで、女は−−>向きとポジショニングがほぼ固定されている。



そして、最後のエピソードの中で、他の物語の人物たちが、ほぼ同じ場面の中ですれ違う。

五話の登場人物の市電の中に
小林薫南果歩は二人で乗っている。あたかも、一つの山を乗り越えてこれからの二人の関係がまだ続いていく事を、新年の初日の出を見ることで確認しあうように。

加瀬亮とその息子も乗っている。救いようの無い家庭に見切りをつけ、離婚を選択する事で新しい人生を始めようとするかのように。

そして、五話の父と息子は、最後には、同じバスに乗る。同じ方向を二人が向きながら、次の再会を約束して。


3,4,5話の登場人物たちには、何らかの救いが物語の中で見出されたのですが、
1話と2話の登場人物達はどうだったのでしょうか?
特に第一話、竹原ピストルは死んでしまったから仕方がないとして、谷村美月が、この映画の登場人物の中で一番悲惨な目にあっている訳じゃないですか?その彼女に物語が救いの手を差し伸べずに、その他の登場人物たちに何がしかの救いを与えたところで、白々しいだけじゃないですか?


いかにも脚本家と監督と役者が酒場で酔った勢いで話し込みそうな事柄ですが、実のところ物語とかテーマというものは、そういうレベルから離れる事はできません。

そして谷村美月に、この映画はどんな救いの手を差し伸べているのか?ということは、この映画のコンセプトそのものなのです、と映画の関係者でもないのに言い切ってしまいましたが、そうとしか思えないのです。


映画の終わり近くで、

谷村美月が、ぽつんと一人でいつまでも来ない竹原ピストルを待っている画面が映ります。

その後、
三浦誠己の墓参りの場面になり 彼は <−−の向きで墓石に対面しています。

この映画のその他のエピソードでは 男が<−−向きなのですから、それと−−>で対面する墓は、女性の墓に決まっています。
五話では、男達を妨げていた女の姿が、最後の最後になってやっと登場することになります。それも墓石という形で。

そして、三浦誠己は、その場で父親に出くわしますから、物語の中では触れられませんが、これは100%母親の墓であり、彼の里帰りの理由もおそらく墓参りであり、父と子のわだかまりの原因もおそらく母親の死に理由があるのだろうと分ります。

この墓地は、函館山にあり、この物語は函館山に、二人の人柱を得た事になります。
一柱は竹原ピストル、もう一柱は三浦誠己の母親。

そして三浦誠己が青函連絡船で函館を離れる時に、

船は<−−と前に進みますが、彼の目線はずっと−−>と振り返り続けます。

何が男達を前に進ませなかったのか?なぜ女達は自発的に進もうとはしないのか?
海炭市叙景」は、母とか子宮をテーマにすえた物語なのだから、母性を過大評価した場合、どこにもいけなくなる男というのはいて当たり前なのですね。

そして、谷村美月は、どうなったのかというと、彼女は兄を失った悲しみによって、一生涯函館山からはなれることが出来なくなり、象徴としての子宮に同化してしまったのかもしれません。
そうすると、いわば、彼女は、物語の巫女なのですね。

それとも、もしかすると、ラストの三浦誠己が死んだ母を慕いながら函館山を振り返る姿と対応しているのかもしれません

谷村、三浦どちらも、死んだ人を思っている顔のまま画面から消えていきます。


そして、もう一人物語の巫女がいますが、
第二話の老婆、
移転が決まって、周囲の工事が始まっています。彼女の生活は楽なものではないでしょうが、コジマ電気やヤマダ電機が建つような時代なら、生活保護をもらえばそれまでよりましな生活は出来るでしょう。
第一話の神話的な貧乏と比べると、老婆の生活には経済的困窮は本来有り得ないはずです。
立ち退く事で、ある意味、彼女にも救いの手が差し伸べられたといえるのですが、
もう一つ、彼女に救いの手として、かつての飼い猫がたっぷりと太って戻ってきます。
そして、そのネコの背中をなでる手つきのアップでこの映画は終わるのですが、今にも死んでしまいそうなその手つきが気になると共に、

このネコがオスなのかメスなのかは分りませんが、オスだと仮定すると、この物語で、<−−方向への出奔をうまくやりおおせたのは、本来彼一人だったはずです。ネコのような些細な存在だからこそ、物語の男達が誰一人成し遂げられなかったことが可能だったのでしょうが、
それがどうしたことか、最後にはまた老婆の元に戻ってきます。
それも−−>方向からの移動というものすごくネガティブなやり方で。

何かを望んで遠くに行ったはずの男が尾羽打ち枯らして老いた母の元に戻ってきて、そして赤子のようにその愛撫にされるままになっている。

その愛情はありがたくもあり、また気色の悪いものでもあり、人の一番安らげる場所のようでもあり、一番人間を腐らせる類のものの様でもあります。

更に付け加えると、老婆の立ち退きを拒んだボロ屋の屋根には青いビニールシートがかけられて雨漏りを防いでいますが、その屋根の形が函館山の稜線と重なっていることに気づかれたでしょうか?


画面を細かく解析していけば、映画は相当の部分まで明晰に語ることが出来るはずのものです。なにもポストモダンの玄学風な語り方でごまかさなくてもいいわけです。

そして、ほとんどの観客は、こういう点を見ているのに見ていないと思い込もうとしています。そして映画の情報をサブリミナル的にのみに感受し、映画に対するイメージを内面に形成して行きます。
そして、なにか、自分の感想をいったつもりになっているのでしょうが、それは、見ていないはずだった映画の部分がサブリミナル的に彼らの口から語らせているだけのことなのですね。


あと、現実的な話ですが、本来18編ある短編集から、どうしてこの5編を選んで映画化したのか、についてですが、

第一話の谷村美月と竹原ピストルの兄妹の貧乏振りって、神話のレベルじゃないですか、竹原ピストルが死んだ時27歳って設定なら、谷村美月のほうは24か25のはずです。
いつまでも、両親なくした孤児なわけはないですから、なにやっても生きていけるはずとは思うんですが、
どうして南果歩が水商売のバイトをやっているのか、どうして第五話で水商売の話が中心になるのかについては、谷村美月は、水商売やったら、すぐにでも食っていける、というメッセージなのだと思います。
実際第5話の水商売の女の子って、映画に出るレベルの顔していないでしょ?あれと比べると、如何にゴージャスな感じを一切消し去っているとはいえ、谷村美月だったら、いくらでも仕事あるよな、と観客目線で納得してしまいましたね。

映画が示す、優しさ、だと自分は思いました。

もしこの映画に後日談があるとすれば、
谷村美月が水商売初めて、里帰りした三浦誠己とバーでであって、それ切っ掛けに付き合い始めるというのがいいんじゃないですか?
基本的に、同じ人物が姿を変えて別のエピソードの中に出てくる映画なのですから、その二人が出会って付き合い始めるというのが、ものすごく収まりがいいのですね。




本当のこというと、竹原ピストルがどうして死ななくてはならなかったのかも、神話レベルの話なのですね。
現実的に考えると、他に仕事探せば何とかなるだろ、今よりはいいところに住めるのではないか?とか、
いくらリストラとはいえ、兄妹の同時解雇は絶対やらないだろ、とか思うんですが、
そういう現実世界の現実感を引きずらずに映画を見てみると、
船というものに、竹原ピストルは、心の奥から関わっており、死んだ両親の思い出とも繋がっているから、船を作らない自分の生き方を考える事が出来なかった、という解釈が成り立つと思います。
まあ、そういう無理はあるのだけれども、すっきりとした幾何学的世界観が、神話的であると、自分には見えるのですが、
自分だったら、谷村美月が妹だったら絶対自殺しないとは思います。
この点に関してなら「おにいちゃんのハナビ」の方が100倍現実的な話だと自分には思われます。