『タクシードライバー』 名画の名場面

はっきりいって万人受けするはずの無い気持悪い映画なのですが、なぜか人気のあるタクシードライバーです。
都会の孤独に蝕まれた狂気という額面どおりの受け止め方だけでなく、
怖いものみたさのホラー映画やサイコ映画としての楽しみ方が出来るのがその原因でしょうか。
またそれに加えて、仁侠映画を見てすっかりその気になるみたいな楽しみ方も出来ます。
話は暗いですが、ヤクザ映画と話の構造はほとんど同じですから。
実際、この脚本家ポール・シュレイダーの前の仕事は「ザ・ヤクザ」高倉健とロバートミッチャム主演の脚本です。

以下で使用する −><−等の記号など私が勝手に考案した用語も多いですから、
以下の内容を読まれるのでしたら、こちら(映画の抱えるお約束事)とこちら(映画の抱えるお約束事2 日本ガラパゴス映画)をどうぞ。当ブログの理論についてまとめてあります。













デニーロが銃を手に入れ手からしばらくの場面。基本的に銃の方向は<−向き。

洋画では、画面の進行方向は−>であるゆえに、この構えで銃を撃たれ続けると、見ている観客は自分が蜂の巣にされているような気味の悪さを感じる。

それが、鏡のシーンを切っ掛けに、銃の方向が −>へと反転する。


受け取る側が自覚できない心理刺激に対しては、批判する事も拒絶する事もむずかしい。
あたかも合理的なやり方で方向を変換された場合、観客の心理は画面のメッセージに操作されやすい。

鏡、階段の踊り場などを用いての、偽装された方向転換は映画に於ける古典的お約束事である。








銃を構える方向が −>に変換される。自分に弾が飛んでこないだろうという安心感がある。
しかも、観客は基本的−>のポジションの人物に共感しやすく、弾が飛んでこなくなった安心感もあいまって、観客自らがデニーロに成り代わって、銃を撃っているような気持ちに成りやすい。

これ、左手で銃撃つ練習しているんじゃなくて、鏡に映る姿なのですね。
画面の方向変換として鏡が使い古された道具であるのは当然なのですけれど、鏡の自分の姿が示すところは、一種の自殺、そして新しい自分に生まれ変わるという事の比喩、
もしくは、その鏡に映っているのは、観客自身の姿、などなどイロイロ連想が飛び火します。
この連想が枯野に飛び火するようなたくましさは、ちょっと日本映画には見られない類のもののように思われます。
文学と詩の伝統の力量差でしょうか。
日本の伝統文学って、五七五で、とことん枯れてますから。




画面の方向を解析してみると、なぜ、「俺に向かって言ってんのか?」の台詞を、みんな真似してみたくなるかが分っていただけましたでしょうか?



そして主人公−>の向こうには大統領予備選の候補者。

アメリカ人にとって、大統領って、天皇陛下みたいな存在ですから。


『体を鍛えて、天下を狙う』雑な言い方をすると、タクシードライバーってそういう映画なのですが、ある意味男の夢です。たとえどれだけ勘違いであろうとも。
なぜ、タクシードライバーがあれほどキモい映画であるにもかかわらず、あれほど支持されているのかの理由の一端がお分かりいただけましたでしょうか?