おにいちゃんのハナビ夜話3

以下の内容を読まれるのでしたら、こちら(映画の抱えるお約束事)とこちら(映画の抱えるお約束事2 日本ガラパゴス映画)をどうぞ。当ブログの理論についてまとめてあります。





日本映画では、移動が<−−の時には物事が正しく進み、−−>の方向に動く時は状況が悪化します。

タネを明かされてみると、あまりにも単純な事で、あきれ返ってしまうのが、映画やテレビドラマなのですが、

不思議な事に、一部業界人を除いて、ほとんどの人たちが、この映像の法則に無自覚です。
かくいう自分も、数ヶ月前まで、この事実に無自覚でした。


なぜ、画面が左右のどちらに動くかで物事の成り行きの好悪が示されていると言う単純なトリックにみんな気がつかないのかというと、

観客はストーリーに集中しているから、または、気持ちよく映画にノセられているから、または、画面の方向転換は巧妙に偽装されていて必然的に見えるから、などの理由が思いつきます。


それで、自分は、映画を見ながら、画面がどちらに動くかを予測しながら見ているのですが、その予測が裏切られた時には、なぜ、裏切られたのかに着いて考えてみるのですね。そうすると、イロイロ映画についての理解が深まります。



谷村美月、退院のシーン。<−−とポジティブな方向に車が動くと思いきや、−−>と縁起の悪い方向に移動しています。

この移動だけで、アレって思うんですよ。


車が画面から走り出る時、病院が少しでも画面に大きく映るようにカメラが少し上のほうに動く。

ここでも、アレって思うんですよ。なんで、そんな中途半端なカメラの動かし方をするのだ?と


谷村美月が、病院に向かってバイバイというところ。
このカットで、二つのアレっていう疑問が解けました。
カメラの中途半端な動きは、遠ざかっていく病院を見る谷村美月の視点を偽装したものです。
観客は、知らず知らずのうちに、カメラによって登場人物の視点を強要されています。
こういうテクニックから物語の中に引き込まれ、登場人物に共感させられていく事になります。

また、病院の前を行く車のシーンが −−>だったのに対し、谷村美月のシーンでは進行方向が<−−と逆転し、その事によって、病院がはるかカナタに遠のいていく印象を受けることになります。


その後家に帰るまで、車は<−−方向に走ります。

これが、
いわゆる条件付けというやつです。映画の冒頭で、画面がどっちの方向に進むといい事があるかを気持のいい音楽と抱き合わせて観客に印象付けておくやり方です。




健康な人間は内臓の存在を忘れているものですが、
カメラも、それが演技やストーリーとよくかみ合っているならば、観客はその存在を忘れてしまいます・
本来自分の目で見ているのではなくて、カメラを通して何をどう見るかに着いて指示されているにもかかわらず、それらを全て自分の意志で見ているように錯覚してしまうのですね。

それに人間はしょっちゅう原因と結果を取り違えているものらしいです。心理学者の下條信輔によると、人は好きだから見つめるのではなく、見つめているうちに好きだからそうしていると錯覚する事が往々にしてあるとのこと。

映画に於いては、視点を強要する事で、観客の心に好感を作為的に作り上げる事が可能なのかもしれません。


屋上での昼ごはんシーン


カメラはだんだん五人の方に近づいていきます。
ファンだったら、谷村美月もっとアップで見たいとか、
佐藤隆太の話の輪に加わりたいとか思うのでしょうが、
ファンでなくても、こういう風にカメラが近づいていくと、
『自分は谷村美月のファンかもしれない』とか、『佐藤隆太って面白いよな』とか錯覚させられる事もあるかもしれません。
下條信輔氏の言うように、好きだから見ているんじゃなくて、見ているから好きだと錯覚することは往々にしてあることですし。




だんだんカメラが近づくと共に、谷村美月の位置が、右側に寄って行きます。

画面は基本的<−−に進行しますので、画面の向かって右側にいる人がその場の主導権を握る事になります。


こうなると、完全に谷村美月のホーム状態。

この画面の流れが、「お兄ちゃん笑うと可愛いんだ」という台詞に妙な説得力を感じさせることになります。


高良健吾のファン以外にとっては、物語の序盤では、彼はまだキモい引きこもりに過ぎないわけでありまして、一般人にとってそんなに共感できる人物ではありません、
序盤に於いては、観客は谷村美月目線で物語を見ています。そして彼女という媒介を通して、やがては高良健吾の役に共感していくようになります。

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