この元野球部の男って、物語の狂言回しなんですが、
なんというか、
彼の姿って、典型的な青春物語のパロディーなのですね。
とにかく燃焼したい、走り出したい。
でも、三振した場面で、それ以上赤方向に走ることが出来なくなってしまい、
それ以降遊び人になります。
ここで使用する −−>、<−−等の記号、ポジティブポジション等の用語は、自分が勝手に考案したものですから、意味分らないという場合は、こちらをまずどうぞ……「映画の進行方向」
それでも、そんな彼の移動方向を完全にネガティブな青に決め付けず、中立的方向に流すところに、監督の彼に対する愛を感じることが出来ると思います。
「燃焼したい、走り出したい」成功しても失敗しても、熱くなったやつが青春の勝者、
そんな風な説教をたれる人は多いですけれど、
そういう説教のわかんない点は、
「じゃあ、青春っていうか10代終わったら、もう走らなくてもいいのか燃えなくてもいいのか?そんでもって、おまえら今何やってるの?」
という反論に全く答えられない点です。
「青春に悔いのないように」、
とか説教するやつは、大抵もう自身では何も新しいことをしようとしません。
そうでなかったら、夢とか希望とかを煽って、
若者にただ働きさせようという悪党ばかりです。
自分でなんかやろうとするやつにとっては、若いやつらって競争相手ですから、
青春云々とかいって若者煽る気に全くなれないんですね。
最後のコンサートシーンで、逆ベクトルで元野球部が立ち上がって、それを契機に画面は進行方向を失って、画面は音楽のPVと同じようなカオスに陥ります。
凡百の監督だと、元野球部も赤方向で画面を赤一色で同調させようとするのでしょうけれど、
「スウィングガールズ」は違います。
どうして、この映画は、観客の感情移入を拒否しながら進むのか?
特定のキャラクターの視点で物語を進めると、
結局走り出してしまうからなんでしょう。
上野樹里目線の映画にすると、とたんに上野樹里の走り方がスマートになって、画面を進行方向に走り出すような気がします。
たぶん、主役の頭の中では、「燃えろ青春」的な妄想が溢れているという設定なんだと思いますけれど、
観客はそういうの、突き放してみているわけなんですね。
だから、個々のキャラクターが変人競争やっているわけです。
で、現実ってのは、そっちの方に近いわけなのです。
「燃えてる青春賭けてる」って自分では思っていても、傍から見たら何じゃそりゃってなイタいもんばかりなんですよ。
であると同時に
本当のことをいうと、人間楽しもうと思ったらいつでも楽しめるはずだし、何かやろうとしたら、何か出来るはずなんですよね。
この映画のメッセージって、そういうことなんだと思うんですよ。
観客はみんな竹中直人を笑ってみているでしょうけれども、この映画見ている人って高校卒業している年齢のヒトの方がはるかに多いわけでして、
意外に、竹中直人の立場に共感できるのですね。
完全に青春から見放されているはずの年齢の人間でも、楽しもうと思えば、いつでも扉が開かれている、
いい話じゃないですか、それって。
「がんばっていきまっしょい」みたいな典型的青春映画の懐古趣味はまるでないです。
そこがいいところだけど、素直に回顧の涙を流したい時には物足りなかったりもするところです。