昔の人間って 馬鹿だと思っていたんですよ。
動いている映像見たら、そこに映っているものなんでも信じてしまうような馬鹿ばっかりと思っていた時がありました。
だから第二次世界大戦とか共産主義革命とかろくでもないことが起きたのだろうと、わりに最近までそう思っていました。
「意志の勝利」ナチの34年の党大会の記録映画を見たんですが、
もうこれがすごいのなんの。 冒頭シーンでドギモを抜かれます。
飛行機がすごいとか車の走る様子を追っかけるのがすごいという、技術論のことをいっているのではありません。
映画の進行方向−−> に逆行してヒトラーが延々と移動を続けるのです。
どうせ、馬鹿騙す為の映画だろ、ヒトラーヨイショしてるだけの映画だろ、と思ってたんですが、
あっけにとられました。
ここで使用する −−>、<−−等の記号、ポジティブポジション、逆行等の用語は、自分が勝手に考案したものですから、意味分らないという場合は、こちらをまずどうぞ……「映画の進行方向」
まさかヒトラーの移動シーンが十分に渡って逆行!!
最初のうちは、ドイツ人って 映画が出来て30年も経ってるのに、映画の画面に進行方向成立させる技法しらねえんじゃないか?と疑いましたが、とんでもない。
1923年の「ノスフェラトゥ」ってサイレント映画には現在と同じ進行方向の操作があります。その早い時期に、あそこまで映画の進行方向にこだわっていた国ってドイツくらいじゃないでしょうか。
やはり、塹壕戦を5年も戦うと、そういう発想って自然に生まれてきますよ、たぶん。
映画冒頭のヒトラーの逆行って、
画面の進行方向を、飛行機、自動車を使って高速で逆方向に進むのですから、これっていわゆる逆走であって、実は高速道路に逆走の車が現れたくらいのインパクトがあり、全体の流れをぶち壊してしまいかねないのですが、
逆に、とっくにブチ壊れてしまっているドイツを立て直す英雄が現れて茨の路を進んでいく というプロパガンダ映像表現になっているように感じられます。
沿道の民衆には、左右両方に動きがあり、両方向に動線が現れますが、
それらをぜんぶぶっちぎるようにヒトラーは、当時としては、高速でそれらの混沌とした動線の中を逆行します。
こんな挑戦的な、映画って、正直、今まで見たことないと思いました。
この「意志の勝利」単なるヨイショ映画ではないのですね。 ヒトラーの演説とナチの行進だけで成り立っている映画なのですが、
映画の流れは、 赤から青へというような単純なものではありません。
・ヒトラーはエネルギッシュに 諸問題に真っ向から立ち向かう。
<−−
・そして秩序をもたらされた国民とヒトラーの意志は同一になる
−−>
・儀礼儀式がおこなわれ、ヒトラーはその結果一段階上の存在になる
その時ヒトラーは<−−
・そして上にいるヒトラー<−−
が下にいる国民を教化する時国民 −−>
はヒトラーと対面する
・その結果ドイツ国民はヒトラーのいる上の段階にサルベージされる
−−>に統一される
・そしてまた儀式がおこなわれ、その結果ヒトラーはまた一段上に上る
<−−
・そして上にいるヒトラー<−−
が下にいる国民を教化する時国民 −−> はヒトラーと対面する
・そしてその結果ドイツ国民はヒトラーのいる上の段階にサルベージされる <−−に統一される
つまりらせん状にヒトラーは偉くなってゆき、それに従う形で民衆も偉くなってゆきます。
映画は、左右の方向だけだと思ってみていたのですが、
この「意志の勝利」には、確実に上へのベクトルが存在します。
事実段階を追うごとに、ヒトラーの演壇は位置が高くなってゆきます。
俺の高さに応えてみろ!
神の子たるゲルマンの国民よ、
熱い奔流となって、俺の高さに応えてみろ!
「意志の勝利」って画面からそう言う声が聞こえてきます。
まんま、ニーチェのツァラストゥラはかくかたりき ではないですか。
日本的葬式仏教と違って、
キリスト教の開祖と教徒の関係は、このヒトラーと群集の関係のようなものだったはずです。
教祖に導かれ、共に茨の道を行く信者、そして教祖に試され脱落する信者、もしくは導きに従いサルベージされてゆく信者、
そのような厳しい宗教観を持っていない私から見ると、ドキモを抜かれます。
「ベンハー」という映画ですが、
あの映画では、キリストは常に画面の中央に提示され、
製作者サイドはキリストに対する価値判断を恐れ多いとして完全放棄しています。
多かれ少なかれ、キリスト教徒がキリストを画面に登場させる時は、ベンハーのような画面中央への丸投げ、もしくは判断停止をおこないます。
そして、キリストの成長や教団との関係などをまじめに描こうとはしません。安っぽいイコンと同じで、神々しさの片鱗さえ見せればそれで十分なのです。
それと比べると、ヒトラーの「意志の勝利」はメシアと教徒の関係を、はっきりと映像の中で表現しています。
当時の映像洗脳に対して耐性のないキリスト教徒なら、ほとんどがこの「意志の勝利」に騙されたのではないでしょうか?
この党大会にはイギリスの元首相ロイド・ジョージも出席しており、彼はヒトラーの演説とナチ党の党大会の美しさに心酔して、帰国後にイギリスの新聞に「我が国にもヒトラーのような優れた素質を持った指導者が欲しいものだ」と寄稿している (ウィキペディア)
映画慣れしていない当時のインテリだったら、誰が騙されても不思議ありません。
「意志の勝利」はどのようなラストを迎えるのかというと、
党大会の大きな会場でヒトラーの感化を受けたゲルマン民族が、右も左も無関係に、整然とした秩序の模様を行進で描き続けます。
高みにサルベージされた者にとり、栄光を進むことも死地へ向かうこともなんの違いもないということでしょう。
生命が個人の肉体を離れ、音楽的な流れの中に全てが溶かし込まれていく、そういう印象を受けました。
戦争とは、自由だ。民主主義は屈従だ。 「1984」の言葉は、ある意味、そのとおりなのかもしれません。
「意志の勝利」のような形式を取らない限り、映画の進行方向はぶち壊す事が出来ないのです。独裁的権力が無い限り映画のお約束事は破壊できないのです。
自由とは何なのか?
それは右へも左へも行くことの出来る権利、 そういうことはいえるでしょうけれど、
ただし、進路の選択はあくまでも個人の意志によって決定付けられているべきでしょう。
しかしながら、個人の意思決定とは何なのでしょう?
ここまでヒトの心を操る技術が巧妙であり、それに対して一般人が無自覚ならば、その個人の意思決定のプロセスさえ、信じるに値しない、
そんな気になってきます。
ていうか、まず第一に観客って、画面が右に向かっているか左に向かっているかという単純なことさえ、全然覚えていないんですわ。
見てるはずのものを見ていないのだから、サブリミナル的に映画にマインドコントロールされている人なんか、今の世の中でも大勢いますよ、きっと。