予感と現実感 「おにいちゃんとハナビ」

以下の内容を読まれるのでしたら、こちら(映画の抱えるお約束事)とこちら(映画の抱えるお約束事2 日本ガラパゴス映画)をどうぞ。当ブログの理論についてまとめてあります。








映画にはお約束化された表現が多々ありまして、

なぜそんな事が映画に於いて必要なのか?というと、
小説的に言うところの伏線というものに近いのですが、
じゃあ伏線とは一体何のために必要なのか?
また、小説的伏線は継続する出来事の原因を示すというより強固な存在なのに対して、
映像表現でのお約束事というものは、単なる次の展開への予兆に過ぎないのですね。

それ、本当に必要なのだろうか?という事を考えずにはいられないのです。
なんで、こんなに映画中に予兆を示す表現法ってのは発達したのだろう?と考えずにはいられないのです。


おにいちゃんのハナビ」の愛好家がみんな好きな、谷村美月ツンデレ二人乗りシーン。
かつて何度も書いている通り、おにいちゃんの腰に抱きつく妹というのがエロゲー風で少々キモい。

ただしかし、現実に於いても「わたしおにいちゃんの大ファンなんです」とか周囲に公言している妹はいるわけでありまして、
キモいということと現実離れしているという事は分けて考えるべきです。



遠ざかっていく自転車に被るように、

「あっ、すごーい。きもちいいい」
「きもちいいな」

という、遠景にかぶせて控えめな印象をもたせなかったら、AVでも恥ずかしいような台詞が語られます。

ほんと何度も書いていますが、「おにいちゃんのハナビ」という題名は確かにキモいのですが、それは、それなりの根拠のあるキモサであると同時に、わたし達はキモいことが一概に嫌いなわけではないのですね。

この控えめな、エロゲーもどきの台詞というのは、それが控えめであるゆえに、サブリミナル的に観客の印象を操作していると考えられます。

ナビスコリッツの箱のデザインにセックスの文字が隠されているとか、コカコーラの壜がチンポをかたどっているとかいうのとだいたい同じです。

無意識的になされるちょっとした猥談が場の雰囲気を活性化させるという技法です。


気持ちのいい場面、そして気持ちのいい音楽、そして実際に「気持いい」という台詞
ただ残念なことに、この遠景の場面の大半は−−>と逆行移動。
このカットは、<−−へのカーブを曲がった少しのところで打ち切られる。

この自転車のシーンは、お兄ちゃんと妹の幸せのピークを表現しているように思われます。

しかし、実際は<−−
とネガティブ方向への移動が大半の、縁起の悪い画面です。

考えようによっては、さわやかな場面であるがその幸せが遠ざかっていくように見えてしまうのですが、

このシーンの後、程なくして谷村美月の病状が悪化して入院と事態は暗転します。

しかし、ただ、状況が悪化し続けることを示しているわけではなく、ちゃんと<−−ポジティブ方向へのカーブを曲がるところまではしっかりと映されています。

このポジティブターンは、おにいちゃんが立ち直ってハナビをあげることに全ての情熱を注ぐようになる事の予兆として存在する、そうとしか思えないのですね。


『あなた、そりゃ、考えすぎだよ』とか『映画の見方って、もっと個人個人で解釈の異なる自由なものじゃない?』とか、いう人もいるとは思いますが、
世の中には、完全な自由などありません。
そして映画は、一個人が一人気ままに妄想にふける事により生まれる文学とは異なり、複数の個性が一つの作品を作り上げる共同作業です。その共同作業中に個性がそれぞれの自由を主張し、それによって収集が取れなくなることもあるでしょうが、それでも何とか対立を解消し、意見の統一を達成し、映画を完成させます。

先ず第一に、どんな狙いで映画を撮るかという事をプロデューサーが中心となって、延々と論議が重ねられ、
そしてその方向性を脚本という形で固定化します。

映画にとって、脚本とは、単なる台詞が書かれているものなのではなく、映画の設計図であり、それを基に役者やカメラや美術や監督が自分のイメージが正しいか正しくないかを激しく主張しあう、そういうものなのです。

そうやって個性をまとめて一つの完成作品にこぎつけるまでの間には、『映画の見方って、もっと個人個人で解釈の異なる自由なものじゃない?』みたいなあいまいな部分はほぼ濾過されてしまっています。
だって、映画の完成は、それに関わってきたスタッフが個々に放棄してきた大量の『自由』の積み重ねの犠牲を基に成り立ったいるのですから、いまさら観客に鑑賞上の自由など許されますか?

観客に許されるのは、誤解する自由と見ない自由だけです。

それが証拠に、この自転車のシーンと同じ場所を映したカットが、映画の後半にありますが、

全くのアカの他人の通行人ですが、その歩いている地点は、前の自転車のシーンで打ち切られた地点からの<−−ポジティブ移動です。
そして、このカットのポジティブな予兆を受け継ぐように、次の場面では、成人式のお祝いのビデオメールが届く事になります。

そして、おにいちゃんは、もう一度立ち直り、世界タイトル戦に向けて全てを注ぐ『ロッキー』の状態になってしまいます。


もう十分でしょう。いかにこの映画が意図的に方向を操作しているのかはお分かりいただけたと思います。
そして、こういう表現は、この映画に限ったことでなく、二つの大戦を契機に、ヒトの心理を操作することを目的として発展した映画そしてテレビも含む映像作品が磨き続けてきているやり口なのです。







今現在 私の仮説は、
観客の立場で、予兆を受け続ける事で、観客は物語の進展を予感し、
予感を持つという主体的な態度を通して、物語に深く関わっていける、そして登場人物たちに感情移入しやすくなっていく。
という事です。


日常的な光景、日常の生活は、わたしたちに常に5分後はどうなるか、1時間後にはどうなるかという予感を与え続けています。
夕暮れ時になれば、空が暗くなりますし、日が暮れればお父さんが会社から帰ってくるはずです。
その内お腹が鳴り出して、ご飯食べたくなるころには、お母さんが何か用意してくれる、

というような事をわれわれは予感し続けながら生きているのではないですか?

一寸先は闇という言い方はありますが、10秒後に全く予期しない事態に出くわすことを、わたしたちは普通想定していないはずです。


しかしながら、映画中では、そうはいきません。
まず、
映画の進行時間と現実の進行時間は、普通は一致したりはしません。
観客の立場として、いつ映画の中の夕日が沈むのかいつ父親が会社から帰ってくるのか、いつ春が来るのか、いつ主人公が死ぬのか?
そういうことは唐突に起こるものではないですか?
また、「カナリア」の解析の中で書いていますが、映画の時間の感覚というのは、現実の世界でわたし達が感じているものと比べるとデタラメなものであります。
お日様の光とか、気温の変化とか、お腹の減り具合とか、体内時計とか、そういう私たちの日常を支えている自然な現実感が、映画の中にはないのですから、それに変わる形で、特定の部分にかたよった現実感を画面は表現し続けなくてはならない、


リアルな世界では、個々人は未来予測と、雑多な事象の中から成り行きを予感して生きています。

そして映画の中で、登場人物たちもさまざまな予感を得続けながら、物語の中を生きているはずです。

だから本来擬似体験でしかない映画がリアルな感触を実現する為には、製作者はありとあらゆる形で、観客に予感を浴びせ続けなくてはならないのではないでしょうか。