色彩1 神様のパズル

人の心理に無意識的に働きかけ、心理操作を行う道具としては、色彩も相当強力であると思われますし、実際その方面の心理学的なリポートは相当な部分公にされております。
こちらは、映像の編集テクニックと違って
知ろうと思えば誰でも知る事の出来るレベルの公然たる秘密ばかりです。



これは色相環というもので、
可視光線をスペクトル分割し、それらを円でつないだもの。
反対側の色を補色といい、その2色のコントラストは最も強い。

赤の補色は緑であり、
この二色を対立する要素にあてがう事で、映像は観客に分かりやすいメッセージを放つ事が出来ると考えられているようです。
負け組みの焦りを赤色を背景色にして表現したり、勝ち組の余裕を緑色を使って印象付けたりしますが、
この二色の対立が強い印象を見るものに与える事から、97年に「ポケモン」で、赤緑二色を反転点滅させ続ける事で強力な刺激を発生させ、その結果何人もの子供たちが病院に担ぎ込まれる事件がありました。


また、薄緑から赤までの色彩が暖色といわれ、それ以外は寒色と呼ばれる。



暖色は、ヒトにとって食用可能な物に多いです。
これは、秋になると樹のみが熟して赤い色になると、鳥がそれらをついばみに来るのですが、動物は色彩によって植物が食えるものか食えないものかを判別する手がかりにしているらしいです。
ある種の植物は実を動物についばんでもらい、遠くに其の種を運んでもらうことを望んでいるのですから、暖色系の実を育む植物が勝ち残ってきたということなのでしょう。
ヒトをして赤色が旨そうであり、興奮を呼び覚ますと言うのは、単に個人的な嗜好をはるかに超えた、自然界の方向性といえるでしょう。



ただ、暖色系は暖色はヒトの交感神経を刺激し活発化させ、時にはストレスを生じせしめる。

人数10人で円形の食卓を囲んでいるところを想像してほしいのですが、そこにはご馳走が並んでいるので、ガツガツ食えると言う幸福感がありますが、同時に、焦って食わないと他人に取られてしまうというストレスが生じる事になります。

おいしそうな色とは、過去に食べた体験から、こういう色彩の食べ物はおいしいと言う類推を超えた、本能に根ざした知覚傾向と考えられています。
それ故、実際に味覚に影響を与えない飾りの部分に料理人は手の込んだ細工をしたりします。

また、きわめて人工的なやり方でおいしそうな色を配置すると、ハンバーガーとかピザハットのようなファストフードに行き着きます。


それとは逆に寒色には食えるものがほとんどありません。だいたい濃い緑と薄い緑のところで食えそうな色と食えなさそうな色の分岐点が来ます。
豆とかピーマンは、緑色をしていますから、実を食べて趣旨を運んでもらうという事でしたら、赤色ほど出なくて緑色でもかなりの種類の植物にとっては有利に働くのでしょうが、
それでも、基本的に、植物の成長を維持するのは葉っぱであり、その光合成を行う部分をむしゃむしゃと動物に食べられたのでは植物のほうとしてはあがったりです。

だから基本的に緑色の野菜は食えなさそうなイメージが強く、たとえ食えたとしても好き嫌いで敬遠する子供の割合は高いです。

「粗食のススメ」の作者幕内秀夫氏が子供はどうして野菜が嫌いかについて書いていますが、何が食えて何が食えないかの判断は、大人になるまでにいろいろと学んだ知識の成果であり、その知識を持っていない子供は、本能的な能力により、食えそうなものと食えなさそうな野菜を区分けして、トマトとかかぼちゃとかの旨そうな色を好み、ピーマンとかなすびのような食えなさそうな野菜を毛嫌いしているとの事。

なるほどな、と思わされる話であります。

まあ、食えない色だから、樹に登ったり、収穫したりする食う為のエネルギーを発揮する必要がないので寒色は、副交感神経を刺激し沈静化させるのでしょうが、
春夏に青々と茂った緑色は、秋の豊かな収穫を約束してくれているわけであり、それゆえ、本能的に、ヒトの心に安心感を引き起こすのだろうと考えられます。

故に、交通の信号機ですが、
ドライバーに危険を感じさせる為に赤が用いられ
安全感を与える為に緑が用いられる
そのような取り決めがなされ、それが国際的に受け入れられたのであろうと考えられます。



また、色相環の一番暗い色の補色は黄色であり、黄色は暗闇に一番生える色である。

それ故夜道で注意を促す為に、黄色が信号の三色目に使われるのでしょうし、
なぜマクドナルドのMの字が黄色であるかというのは、それが夜の闇に生えるからでしょう。


このように日常生活の末端レベルまで色彩学とそれに付随する心理学の研究成果は応用されているのですが、


もうひとつプルキニェ現象というものがあります。
それは、 ヒトの網膜上の赤色と青色を感受する部分がそれぞれ別であることを原因として、
ヒトの目は、暗い場所では青がはっきり見え、明るい場所では赤がはっきりと見えるという現象ですが、

おそらく 光量が急激に減少する日没に天敵の不意打ちから逃れる為に、青い光の時間帯に視力を向上させる能力を、人類とそれをさかのぼる哺乳類は何百万年もかかって獲得したのだろうと思われますが、

この事は、全体として青い背景の中に、独自に発光する赤い光があるなら、その光景は、通常の光景の2倍美しいのではないか?
そう考える事が出来ると思います。
そして、それゆえに、ヒトは日没の光景を美しいと感じるのではないでしょうか?


映像は色彩を操る美学でもあるのですから
そういうことをイロイロ考えて、画面を構成しているのだろうと思われますが、

最近特に、日本では画面の基調を青とし、そこにアクセントとして赤系統の色をちりばめていく。
更には、赤系統の過多の左右配置バランスによって、
画面上に正常感と異常感をかもし出し、それを持って観客に何かを「予感」させるテクニックが半ば一般化しています。


そんな理論を本気で実践してしまうと、登場人物の服装の色を決めた時に、その立ち位置が既に決定されてしまったりと、イロイロ面倒な事もあるわけですが、


普通、活発なヒト、明るいヒト、は暖色系の服を着て
暗いヒト、非行動的なヒトは、寒色系の服を着て、
その人のイメージを観客に表現しています。




それで「神様のパズル」という三池崇史監督作品ですが、

簡単にストーリーを説明すると、
双子兄弟の代返するために大学物理のゼミに参加した高卒フリーターが、物理学の天才少女を出会い、一緒に宇宙をヒトが作る事が出来るか?という事に取り組む物語ですが、

天才少女のほうの谷村美月は、最初から最後まで青のジャージ一着で通します。

まあ、天才という設定で、人付き合いがほぼ出来ない無表情な18歳という役どころなのですが、

結局、インチキ学生として大学のゼミに入り込んだフリーター市原隼人と、控えめでさわやかな恋心が芽生えるというラストになります。



この映画のポイントは、
感情の表し方をほとんど知らない、天才少女がどの段階でインチキ学生を好きになるか、彼女がツンツンしているだけでなく、どの段階でデレデレしているのかをどのように、ささやかに観客に予感させる事が出来るか、にかかっていると思われます。
今回は、それを色彩の点から追求しているのですが



映画開始17分で、大学に籍だけ置いて授業に出席しない谷村美月を、市原隼人が呼びにやられます。


映画開始30分後、
物理の門外漢であるはずの市原隼人が、ゼミで発表するために助言を乞いに再び彼女の部屋を訪れます。 今度は、市原隼人の服の色が暖色の中の暖色のオレンジ色になっています。それは、彼から彼女のほうへの強いコミュニケーション欲求があることを観客の無意識に印象付けていると言えるかもしれません。ですが、それ以上に彼のオレンジ色が彼女の部屋のいくつかのオレンジ色とばっちり対応しているのが、二人の心の接点を表現しているように見る側には感じられてしまうのです。

もちろんこれらは、サブリミナル的に観客の心理を説得しようとしている技法であり、普通文芸批評のような場所ではなされる話ではありません。


一般的に、
部屋はその人のきわめて私的な縄張りであり、その箇所はその個人の自由が最大限に発揮される場所のはずです。
それゆえ、部屋というものは、その人の個性を非常によくあらわしている、もう一言踏み込むと、
その人の心を比喩的に表している物とも言えるわけです。

だからこそ、赤の他人の部屋の写真だけをぞろぞろ集めた写真集が、発売されそれなりに売れるということもありうるわけです。



ほとんど人付き合いをしない天才少女の心の比喩というべき部屋の光景は、
壁一面の本棚、床には意味不明な凹アナ。
窓際にずらりと机とPCのディスプレー、
一見豪華そうな部屋なのに家具は、どれもこれも安物。



そんな中で、彼女のジャージと同じ色彩なのが、無意味にでかいプラ製ゴミバケツ2ヶ。

普通、というか、古代の人間にとっては、同じ色のものは同じ性質を持っていると考えることは、ごく当然のことで、
古代ペルシャでは、
それゆえ水と食用植物が豊かに恵まれるようにと、
神へのお供物を載せた皿は、緑色と青色の模様で飾られていました。

同じ色を持つものは同じ性質を持つ。もしくは緑色を茂らせて収穫を求めるならば、緑色の皿にお供物を乗せて神様にお願いしなくてはいけない。
彼らはそう思っていたわけですし、
その伝統から、今でもわたしたちは寒色で皿に植物を連想させる模様を描き続けているわけです

同一色は同じ性質を持っていると看做されやすいと言うのは、はるかカナタから脈々と続いているヒトの心理傾向であり、

そして、「神様のパズル」の中では、
天才少女の心の空虚感が無意味にでかいゴミバケツから連想させられます。


それに対して、
2度目に市原隼人が訪れた時、いきなり土下座して、勉強教えてくださいと頼む時の彼の服装が、暖色中の暖色のオレンジ色。
そして、その服の色に共鳴するように、なぜそこにあるのか意味不明な、ガチャガチャの機械二つ。

この二回目の訪問から、天才少女とニセ学生の関係は飛躍的に深まっていくのですが、
何ゆえ彼女が彼に興味を持ったのか、好感を持ったのか、が、このガチャガチャマシーンである、と考える事は、無理な飛躍ではないでしょう。
いや、古代ペルシャ人なら、当然そう考えるはずです。



無表情で他人と関わる事の出来ない天才少女がどこかに持っている、
無邪気な遊び心、
それを視覚的に淡白に表現したのが、ガチャガチャの機械であり、
それと同じ色の服を着ている市原隼人は、それに共鳴できるのだから、
天才少女は、彼に心を許していく、

そう考える事が出来るのです。


普通はここまで、くどくどと言葉で言わず、
画面を見た時に、直感的になんとなく理解するだけですが、
こういうサブリミナル的な表現力というのは、2時間通してやられると、
結構ノックアウトを奪われる要因になったりもするのです。


そういわれてみると、映画終盤になって一見唐突に出現する、天才少女のファンシー趣味というのは、じつは、そのガチャガチャの機械の中に詰まっている原色の丸い何かの類似するものとして、映画の序盤に伏線が既に提示されていたのですね。


そして、ファンシーキャラの服の色を考えるに、この2匹が女の子と男の子を表しているものだという事は容易に想像できることです。



もうむちゃくちゃデレデレな表現じゃないですか。


何べんも見て、やっと私も分かりました。



いろいろ映画を見て分かる事は、
凡作といわれる作品でも、実は相当丹念に作りこまれており、問題はその表現がうまく伝わっているかいないかなのですね。
つまり観客に届くような声でちゃんと説明してくれない映画が、凡作扱いされるわけで、
しかしだからといって、普通の観客が一度見ただけで分かる範囲のことのみでその映画を決め付けるのは、いかがなものか?と思う次第です。

あと、訳分からんといわれる作品でも、実はちゃんと分かるように伏線をいろいろな方法で張ってくれているものなのです。
何でもかんでも狂気で済ませてはいかんだろう、と思う次第です。
狂気には狂気のロジックというものがあるわけですし。