おにいちゃんのハナビは、なぜ泣けるのか?

新潟の葬式ってどうやるのか知らないんですけど、葬儀場で棺おけに花入れるんですか?

自分が住んでいるところでは、火葬場でやるんですけど。


葬儀場で高良健吾が棺おけに花入れて、それで外出てしまっていますから、このお兄ちゃん、火葬場に行って、妹が骨になったのを見てそれを骨壷に入れる事やっていないのですよね。


映画の中では、そのことについて具体的に語られる事はないですけれど、
最後の花火の場面は、妹の火葬に関連していると言う観点から、細かい部分をチェックしてみました。

成人式に、死んだはずの妹からビデオメールを貰ってからお兄ちゃんは、世界タイトルを目指すロッキーのようにがむしゃらにがんばり始めるのですが、
普通は、あそこでおにいちゃんが完全に立ち直ったように思えてしまうのですが、
実は、あの時のお兄ちゃんは、相変わらず妹の幽霊に頼りきりの状態だったのではないでしょうか?

自分は、このブログに於いて延々と 
日本映画の画面は <−−の方向に黙々と流れていると書いています。

以下の内容を読まれるのでしたら、こちら(映画の抱えるお約束事)とこちら(映画の抱えるお約束事2 日本ガラパゴス映画)をどうぞ。当ブログの理論についてまとめてあります。


<−−の方向に動く人、そちらの方向を向いている人は基本的に目標に向かって前向きに行動している人であり、
−−>の方向に進んでも、その方向を向いても、そちらには叶えるべき目標など無いのです。

映画とは、基本的にこういう形式に演出され、編集され、そして、観客は、そのお約束事をサブリミナル的に受け止める事で映画の印象を心に形成していきます。


この映画のなかでは、谷村美月は、1時間20分のところで死んでしまうのですが、それから映画が終わる30分間の間、遺影とビデオメールだけの存在になりながらどのような演技を続けているかについて、少々解説してみたいと思います。

遺影の谷村美月がどうして演技を続けらるのか?十思いの方もいらっしゃるとは思いますが、
どうして、出来ないんですか?

害虫の回で自分は、書いていますが、トラックや乗用車でさえ「演技」が出来るのですから、谷村美月の遺影に演技が出来ないはずが無いでしょう。














以下、キャプチャー画面へ注釈を加えていきます。



普通の葬式です。ただ、新潟では、葬儀場で棺おけに花を入れていくのですか?


こんな可愛い女の子がこの歳で死んだら、そりゃ周りの人は悲しむだろうな、とか、
お嫁さんみたいに化粧されて…、ちゃんと大人になって結婚できたら、幸せな家庭…、きっと幸せに成れたのだろうに…

このカットからそういう事を思い浮かべはしますが、それはあくまでも現実世界に属する現実的発想です。

べつに、上のように感じても映画鑑賞の妨げにはなりませんし、そう感じることは、映画に現実のように感じることに於いてはプラスに作用しますが、

視点を変えて、映画内限定のお約束事を考えると、彼女は相変わらず、<−−の方向を向いています。
周囲の人が悲しみに沈んでいても、彼女一人はずっと物語のなかの目的を見続けているのです。


悲しみに沈んだ正月。
家族は後ろ向きな気持ちだから −−>向きですが、谷村美月の遺影は <−−側のポジションを取っています。


こちらは、彼女がまだ生きている時のシーンですが、後ろ向きなお兄ちゃんにやる気を出させようとしている彼女は、当然<−−のポジションです。

そのような事を考えると、谷村美月は遺影になっても、周囲の人に明るさを振りまいているとみなすことは出来ないでしょうか?
いや、出来る出来ないではなくて、観客はサブリミナル的にそのような印象を刷り込まれています。


ちなみに、その真っ暗な正月に、大杉漣がみている空虚な正月番組ですが、

「トニー越後」という司会者の番組ですが、
その「トニー越後」をググってみても、ヒットしませんでしたので、架空のテレビ番組らしいです。
つまり、映画の為に特別に用意したものらしいのですが、
テレビ番組、とくにバラエティー番組は、映画以上に、画面の方向による視聴者の意識と情感操作の技法に満ち満ちています。添加物だらけの保存食のようであり、みるだけで体が悪くなります。特定の立場への共感の強要、おかしくも無い冗談への無理強い笑い、必要もない商品への肯定的イメージの刷り込み、とにかく全てがくだらない。
その印象操作に、この画面進行の恣意的操作が使用されていることについては、自分は、すべての人が自覚すべきだと考えています。
なんで、日本にまともな民主主義が根付いていないのか?なんで日本では総理大臣の任期は一年なのか?なんで、自分達が選挙で選んだ政治家をくさす事しか国民はしないのか?
わたしの考えでは、くだらないマスコミの宣伝番組のせいです。

それは、十分に怒るに値する話ですが、それはとりあえずいいとして、

この画面で、三人が −−>方向にお辞儀していますが、ふつう、正月番組でこんな縁起の悪い方向にお辞儀なんかしないはずです。
映画では、わざわざ逆方向の映像を製作してまで、悲しさむなしさが演出しているということです。


お兄ちゃんが青年会を辞めて、一人で花火を揚げることについて両親にはなす場面ですが、
当然、彼女のポジションは <−−のままです。

高良健吾谷村美月のポジショニングは、彼女が生きている時も、死んでからも、変わっていません。つまり、ずっと一貫してお兄ちゃんを励まし続けている妹ということです。たしかに、けなげだ。






最後になって、谷村美月の遺影のポジションが−−>に変わります。
高良健吾が揚げるの花火、つまりお兄ちゃんのハナビ、なんですが、それを十分に彼女に見えるように遺影を掲げる場面です。
このときまでに、妹が望んだとおりに、お兄ちゃんは前向きになり、家族は温かく結束していますし、それに地域社会にも完全に溶け込むことが出来ています。
妹が望んだ目的を、残された彼らがすべて達成したのだから、もう、彼女は<−−のポジションにいる必要も無いのです。
それでこの場では、お客さんの立場として花火を見ているのですから、−−>向きが妥当なのです。

物語を主導的に動かす人が <−−
に位置し、それにたいして受動的立場の人は、−−>の側にいるが妥当でしょう。
この場合、性格の暗い、明るいは関係ありません。


そして、この映画が多くの人に高評価なのは、

このシーンのような分りやすい表現をちゃんと丁寧に見せているからでしょう。谷村美月が、花火をちゃんとみていることを表す為に、遺影のガラスに花火の影が映ります。また、その花火の影は、彼女の涙のようにも見えてしまいます。
ベタな表現と言えば、そうなんですが、この表現が生きてくるのは、他の場面では、あんまりベタな表現をなるだけ絞っているからであり、
また、遺影の谷村美月が涙を流しても不思議が無いくらいに、彼女の遺影に演技を続けさせていた演出法の御蔭です。


いい歳して、こんな映画に泣かされてしまう事を恥ずかしいと少々思わないことも無いんですが、でも、むしろこの映画で泣けなかったとしたらそちらの方が負けでしょう。

ただ、なんで、この映画で泣けるのかがよく分からないなら、それは製作者サイドへの完全な負けであり、自分はそれを認めるのが少し悔しい。
だからいろいろ考えてみたわけです。

この映画は、そう考えながら見ると、ミステリーものでは本来無いのですが、なんで観客を泣かせるのかについては一つのミステリーそのものです。



今度は、高良健吾が花火を見せられる番に成りますから、お客様ポジションの−−>側に移ります。



そして彼が見せられる花火は、妹の周囲の人たちにより画策されたもので、いわば妹がお兄ちゃんの為に揚げた花火ということになります。

「お兄ちゃんのイメージはオレンジ色、あったかくてやさしくて」
だから、その花火の色は、オレンジ色です。
さっき妹の為に揚げた花火は、彼女が生前好きだと言っていた赤色でしたが、今度の色は、彼女がお兄ちゃんがこうあってほしいと望んだオレンジ色
であり、花火の日までに、その通りに、彼はひきこもりからあったかくて優しい人に変身を遂げていました。


なんで、この映画が見る人を泣かせるのか?その謎は何なのだろう?と考えてながら、いまだすべてが分ったわけではありませんが、それでも謎の一部分は完全に解くことが出来ました。

「おにいちゃんのハナビ」の題名で、どうしてハナビがカタカナなのかですが、

おにいちゃんが揚げた赤色の花火 のこと というよりも、
最後におにいちゃんがみあげる、お兄ちゃんの為に華が揚げた花火 の事だから、華と花火をかけて、ハナビとカタカナ書きにしてあるのですね。

それが証拠に、ポスターの題字は、最後のハナビの色と同じく、オレンジ色で書かれていますし、その周囲には、妹がお兄ちゃんのために作ったオレンジ色の花びらのハナビの貼り絵がデザインされています。


ポスターには、世界一の花火が上がる日、天国の妹にささげた花火。とかかれていますが、

おにいちゃんのハナビ ってのは、そっちのハナビじゃないですし、

更にいうと、妹って、天国にまだ行っていないんじゃないか? ずっとお兄ちゃんの傍にいたんじゃない?と自分は思うのです。

だって、おにいちゃん、妹の葬式途中で退席しているでしょ。彼女が骨になるところ見ていないでしょ。


とっくに死んだはずの人を、まだ生きているように感じながら生きている人たちの心情に共感させる事で、人を泣かせる、

「おにいちゃんのハナビ」のミステリーの一番大きい部分は、そこにあるのだと自分には感じられます。

とっくに死んだはずの妹が、最後に花火になって空に上がる。そしてそのまま彼女は天国に行ってしまい、それを見送るおにいちゃん。
もうおにいちゃんは強いから、妹の幽霊がいなくても思い出だけいきていけるだろう、たぶん。

そういう事を考えると、やはり、泣けてくるのですね、この映画。

高良健吾と谷村美月の演技がすごいから、この映画は人を泣かせる、みんなそんな風に考えますが、具体的にどこがどうすごいのかは一般観客はほとんど分らない。

自分はかつて書いていますが、演技とは、先ず台本を読んでイメージを存分に膨らませる事であり、
谷村美月は、「この人物の心情をもっとも適切に表している選択肢を選べ」的な問題を解かせたら、凡百の国語の教師が土下座しなければならないレベルの読解力を持っているだろう、と。

その台本を読む力は、どこから出てくるのだろうと考えるにつけ、過去に、彼女が出演した映画の役での体験が生きてくるのではないでしょうか。

男のケツを蹴っ飛ばしても前に進ませようという役は「カナリア」の女の子とおんなじですし、
幽霊の立場で主人公の男の子を導こうというのは「死にぞこないの青」と全く同じです。特にあの映画の幽霊が主人公と別れる場面は、「おにいちゃんのハナビ」のラストとほとんど同じように自分には思われます。
「死にぞこないの青」については、なんでこんな映画に彼女は出たんだろう?と自分はブログの中で書いていますが、それでも、彼女はその時の体験をちゃんと別の映画で生かしているのです。
死んでからは、さすがに、遺影になるだけで何もしていないですが、遺影が演技をするという前提で、生きている間の演技をしている、自分はそう思うわけです。