時間は目に見えない。


まえ とか あと とか あいだ とか

こういう単語は、すべて時間と場所の両方を表現する時に使います。

時間は目に見えない上に、流れてこそ時間。
動きを想定した抽象的な概念が時間であり、

表現するのが非常に難しいのですよ。

もしかすると、未来も過去もヴァーチャルなものに過ぎなくて、ただそういうものがあると仮定しておいた方が何かと都合がよい、そういうものに過ぎないのかもしれません。

何はともあれ、時間を表すための固有の語彙は、実のところほとんどなく、空間を表す時に使う語彙を流用しているに過ぎません。

いわれてみないと、みんな忘れているのですが、時間は、目に見えるものではないのですね。
わたし達が、時間を見ているように錯覚するのは、時計の針の動きとか、雲や川の流れ、生き物の動きの中に時間を見ていると感じているだけなのです。


画面の中で、時間の経過を表現しようとするなら、登場人物を動かすか背景を動かすかしかないわけです。それをしなかったら、みている観客が実体験する1時間40分程度がむき出しにされるだけです。

時間が流れる、それには、人や背景が動かなければならない、どんどん時間が流れる事を表すには、どんどん動かなければならない変わらなければならない。
どんどん動いたように表すには、一方向にどんどん進んで、逆の方向に戻ったり振り返ったりとまどろこしいことをやってはいけない。

もし、3分や4分の短い時間の中で過去と未来を含む物語を語るとしたら、現実の3分や4分の何倍何百倍もの時間を流さなくてはなりませんから、どんどんと画面を人や風景が流れていかなければならない、…